自分の病気のことを、初めてきちんと書きます。


肺癌の手術を受けてから、今日で5年が経ちました。2017年2月8日が手術日でした。

当時、小学2年と幼稚園年中だった子ども達も、ずいぶん成長して中学1年と小学4年になりました。


2016年の秋に、健康診断の胸部レントゲンで左肺に影が見つかりました。いくつかの病院で色々検査をした結果、現在もお世話になっている都内の大学病院に行き着き、入院してそちらで手術を受けました。


手術前は、左肺の上葉部に2cmちょっとの癌細胞が見られただけなので、上葉部の切除とリンパ節の郭清(転移の可能性が高い領域に含まれるリンパ節を、周囲の組織ごとひとまとめにして切除すること)をすれば済む予定でした。


ところが、手術から1ヶ月ほど経ち、切除した細胞の病理検査の結果が出て、一緒に切除したリンパ節に転移が見つかってしまいました。


主治医の先生のお話によると、見つかった転移箇所は切除済みだけれど、一か所でも転移が見つかるということは、既に他にも癌細胞が血液に乗って全身に散らばっているかもしれない、とのことでした。

抗がん剤でそれらをたたいておく、という選択肢があり、すぐに抗がん剤治療を開始することになりました。ただ、抗がん剤の効果は人それぞれだし、的中率もそれほど高くないので、あまり期待はできない。でも、やらずに後悔するよりは良いと。


手術後の傷や神経痛が少し軽くなって、ようやく普通の生活に近づいてきた頃でした。転移は思ってもみなかった事実だったので、すごくショックでした。

転移があったことで、ステージも当初の1→2になりました。肺癌のステージ2の5年生存率は約50%ほどだと説明があり、5年後に私はどちら側にいるのだろうと茫然としたことを覚えています。


こうして、同年4月から、5月、6月、7月、と4回に渡り入院し、抗がん剤治療を受けました。その都度、副作用もありましたが、その終了後はしばらく順調な経過が続きました。



それから約2年間は、無事に月日が過ぎました。病気前に比べたら、疲れやすくなったり体力は落ちましたが、普通に生活できていたし、定期的に検査で無事を確認していたので、再発することはあまり想像していませんでした。


しかし、2019年7月に、定期的な血液検査で腫瘍マーカー値が上がり、PETや脳MRIなど検査を受けたところ、縦隔(左右の肺に挟まれた部分)に転移が2ヶ所見つかりました。小さいものだったので放射線治療で消すことになり、1ヶ月ちょっとの間、ほぼ毎日病院へ通い続けました。


後から振り返ると、この転移を告知された時は、本当に打ちのめされました。もう、この病気から逃げられないんだ、、、心からそのような気持ちで挫けました。すごく精神的につらくて、何か現実逃避できるような、一人でいる時に病気のことを考えすぎずに済むような趣味が欲しいと思って、ピアノを習い始めたのも、この頃でした。

ピアノは子どもの時に10年くらい習っただけでした。実家にアップライトピアノはありますが、自宅マンションに持ち込むのは難しく、長女が習い事に使った電子ピアノが家にあるので、それを使ってレッスンに通うことにしました。そして、細々とですが、現在も自分なりに楽しく続けています。


放射線治療は効果があったようで、2ヶ所の転移は9月末には消えていました。この時はとても嬉しかったのを良く覚えています。



でも、この嬉しい状況も長くは続かず、4ヶ月後の2020年1月末には、再び腫瘍マーカー値が上昇しました。またPETなどの詳しい検査を受けたところ、左右の肺に再発が見つかってしまいました。いくつ、と数えられるものではなく、もはや無数に点在していました。診察室で画像を見たときは、自分のものなのか信じられないような気持ちがありました。先生のお話に何とかついて行こうと必死でした。ただ、幸い癌細胞は肺の中に収まっており、他臓器や脳に転移していないのが救いでした。


もう、この状態になると、私の場合は、今の医療技術では癌細胞を消すことはできないそうです。今後は、できるだけ病気とつき合う時間を長く延ばせるように頑張る、という向き合い方に変わります、とのお話でした。


癌細胞を消すことはできないけれど、悪さをしない程度の小ささに抑えておく効果のあるという、分子標的薬を用いることになりました。毎日一回だけ服用する飲み薬です。飲み始めの時期のみ、ちょうどコロナ禍が本格化する直前の2020年2月に経過観察の入院をしましたが、その後は薬が効き続けていて現在に至っています。



細かい副作用は色々とありますし、いずれは耐性ができて効かなくなることにびくびくしておりますが、今も無理しない程度なら普通に生活できていることは、とても嬉しいし、幸せなことだと思っています。


この先、何十年も長生きするのは難しいかもしれないとわかり、できる限りやるべき事とやりたい事を優先した穏やかな毎日を過ごすようになりました。体力も気力も、病気前に比べて落ちているのは事実だし、ストレスや疲れを溜めないことが病気にとって重要なので、優先から漏れたものは削ぎ落とされ、無理をせず、よりシンプルな生活になりました。人と比べることもなくなり、自分なりの幸福感を重視する。大切に思う人を大切にする。大切に思う事を大切にする。そのような境地に思い至りました。



そして、自分にとって最も大きな存在は、やはり家族です。大好きな家族(双方の実家も含めて)には、本当に大きな心配と負担をかけ続けています。

特に、手術や抗がん剤治療をしていた5年前は、入院回数も多く、子ども達もまだとても幼かったので可哀想なことをしてしまいました。

当時、次女は表向きには明るく元気に過ごしていてくれたのですが、お母さんが死んでしまう夢を見て、泣いて目が覚めてしまったりしていたそうです(その頃は誰にも言えず、ずいぶん後になって本人からそう聞きました)。長女は、学校の図書室で「がんのひみつ」などの学習漫画を借りてきて、お母さんの病気について自分なりに学ぼうとしてくれていました。夫も、仕事が忙しい中で家事全般もお願いすることになってしまいましたし、病気についてもかなり自分で調べてくれていました。

家族には患者本人と同じように、それ以上に、痛みや辛さを共有せざるを得ない境遇にいてもらうことになり、とても申し訳なく思います。


元気なことが当たり前ではない、ということを身をもって痛感した私たちは、お互いの健康に感謝し、健康を願うのみです。お互いを思い合う気持ちは強くなったという点を考えると、得難い経験をしたのかなとも思います。


今後は、自分の病気の進行が先か、医学の進歩が先か、によって、自分の寿命も変わっていきそうです。

宮本輝さんの著書『命の器』に、この数年間、自分の中で常に忘れることのない一節があります。

「いつでも死んでみせるという覚悟を持って、うんと長生きをするのだ」

毎日を、できる範囲の中で自分なりに後悔のないよう楽しく過ごして、同時に、元気に長生きする自分の姿を想像し続けたいです。






(カバーイラストは一昨年に、次女が私に描いてくれた似顔絵です)