親の影響なのか、無関係なのかは分からないが、
中学時代 僕はとにかく「グレよう」としていた。
グレていたかと言うと若干中途半端な感はあるものの、
まあ、不良か不良でないかという括りを用いれば
間違い無く不良の部類に入る方だったし、
それを格好いいものと思っていた愚かな時期だった。
僕の小学校時代に、親父が借りてくるビデオも何故か
「ビーバップハイスクール」の実写版。
今思えば何故あのヤンキー映画を家族全員で全シリーズ見ていたのか
不思議でならないが、うちのテレビに「寅さん」や、
「浜ちゃん」等は全く登場せず、「トオル」と「ヒロシ」が殴って
蹴って血を流して下品な言葉を使う・・・。
そんな映画をまるで「刷り込み」の様に幼い頃から親の手により
「見させられていた」 のです。
ヤクザ映画も見たが、流石に裸が多く余りよろしくないと思ったのか、
親父とおかんの間では「ビーバップ」が「教科書」として最適と
思ったのか、全員で食い入るように見入ったものだった。
(まあ、面白かったですけどね・・・子供にいいかは・・・?)
当然そんなヤンキー映画を見終わった後は自分が何か強くなったような
そんな錯覚に陥り、中学生になったら「ボンタン」を履いて「ソリ」を
入れて他校の生徒と「タイマン」を張りたい。
そんな事に憧れる子供に自然と兄弟 皆育っていた。
特に僕に一番その傾向があり、本当にボンタンを履いて中学校に行き、
しょっちゅう教師に取り上げられては親が替わりのズボンを持って
学校に来るという繰り返し。それでも親父は特に怒りはしなかった。
徐々にエスカレートしていく僕に対して、興味が無いのか
それでいいと思ってるのか、全くと言って良い程説教をしない親父。
誰かと喧嘩になったと話すと「勝ったのか?」と聞く。
「負けた」と答えれば「明日勝って来い」と言う始末。
そして調子に乗り過ぎた僕は遂に警察から呼び出しを受ける。
他校の生徒を殴って怪我をさせ、訴えられたからだった。
夜中に教師も集まり保護者も集まり、対策を練ったりと
本当に色んな人に迷惑を掛けた。
今思えば本当に恥ずかしい事をしたとは思うが、あれがあったからこそ
今の自分があるとも思える。(まあ大した人間にはなってないが)
自分がそんな馬鹿息子の親だったらと思うとぞっとする。
警察の事情聴取に何度か呼ばれた後に、遂に「裁判所」に出廷する。
まさかこんな若さで裁判所に赴く事になるとは・・・。 (当時14歳)
流石に一歩踏み込む際は、自分は一体どうなるのかと不安になった。
しかしそこは自分がそれまで想像していた様な場所では無く、
物腰の柔らかいおばさんによる事情聴取という様な形で
「いつ裁判が始まるんだ?」と思いながらあれこれ話をしただけだった。
傍らには親父が付いていて「申し訳ありません」と頭を下げていた。
いつもならおかんにそういう面倒な役割を押し付ける親父が 、
その時だけは何故か「自分が行く」と言って付いて来たのだった。
一応、小さいながらも土建屋の「社長」なので忙しいはずなのに。
裁判所からの帰り道、
ゆっくりと先を歩く親父の背中は少し寂しそうでもあり、
何も気にしていない いつもの背中の様でもあり、
本当にその日の親父はそれまでに一度も見た事の無い表情で
何を考えてるのかさっぱり分からなかったし、一言も話さなかった。
きっと、恥ずかしく悔しい思いがあるだろうに。
殴る蹴るは当然と思っていたが、この件に関しては
全くと言っても良い程 僕に対して怒りを見せず、ただ
「育て方を間違えたのか・・・。」という様な
寂しげな表情ばかりを見る事になり、そんな親父の顔を見たくないと 思い、
そういう下らないグレ方を辞め、真人間になろうと努力した。
今思えばそうなる様に親父が仕向けた事だったのかもしれないが、
とにかく僕はその事件を契機に大きく変わり、勉強をする様になった。
大学も私立には絶対に行かせないというスタンスを親父が貫いた為に
兄貴も僕も必死に勉強して国立に受かる事が出来たが、あれも今思えば
親父の方針がそうさせた訳で、合格した時は多少感謝した記憶がある。
親父は数学が好きで、小学生で九九を覚えている僕に
「因数分解」を教え込んだりして、逆に迷惑だった。
授業のレベルと余りにかけ離れた事を教えられていた為に
僕は生意気な小学生だったと思う。教師には嫌われていた。
親父は自分を「天才だ」と言って憚らないおっさんで、
確かに計算の早さや正確さ等は驚くものがあって秀でていたが、
それを余りにも誰彼構わず、前面に押し出す性格であった為に
「謙遜」という言葉を覚えて来なかったのでは無いかと思った。
そんな自称「天才」の親父が今、病院のベッドの上で口を半開きに させて、
よだれを垂れ流し、目をあらぬ方向に向けて寝転がってている。
体はぴくりとも動かず人工呼吸器を装着し「生きさせてもらっている」 。
体には色んなチューブがあちこちに刺さっていて、
見るに耐えないものであったが、それでもひょっとしたらまた
奇跡的に回復して、いつものように 暴れ出し、
「こんな病院なんかにいたら余計に病気になる」とか悪態をついて
自力で脱走するんじゃないかと、有り得ないであろう期待を込めつつ
冷たい体を揺すり、理解出来ないものと分かっている言葉をかけ、
恐らく無意味であろうと思われる行動をとり続けるしか無かった。
ある意味、単なるポーズだった様にも思う。
誰に向けたポーズ?
この意識を取り戻す事の無い 親父に?
一緒に見舞いに来ている妹達に?
この親父の為に汗を流してくれている看護婦達に?
自分自身の納得の為?
分からなかったが、僕はひたすらに足を運んで声を掛け続けた。
無駄な行為だとは思いながら。
病院は会社から遠く、医師との相談事等をする時は会社を早退し、
急いで車を走らせる日々がしばし続いた。
早退の申し出が三回目に達した時、遂に会長の口から
「仕事を辞めろ」という言葉が放たれた。
「お前の親父が生きようが死のうが俺には関係無い。」
「仕事よりも親父を優先するなら辞めればいいだろう。」
そう言われ、これは「クビ」を宣告されたのかとも思ったが、
その場は謝り、「病院には行かない」と約束することで事無きを得、
社長が「こっそりと言って来い。後は俺が何とかしてやる。」
と言って下さった為に何とかその危機は免れたが、
もう二度と早退するとは言えないという焦りから、脳は又もや
「いっその事・・・。」という邪な気持ちに支配され始めた。
親父が死んだら・・・
多大な借金を抱える親父だった為、遺産相続なんて洒落たものは無く
残された親族は「相続放棄」という面倒な手続きをしなければ
借金取りにつかまるという事が分かっていた為に、兄弟は各々
相続放棄の段取りと、葬式場の手配を始めた。
葬式の手配というのが実は大変で、突発で頼むと非常に高額になり、
前以て式場に相談するも、
「申し込みより2週間以内」に死んでもらわないといけない
というシステムだそうで、申し込むかどうかを非常に迷った。
「早く死んでもらわないと困る」
そう思いながら親父の見舞いに行くなどと、これほど悲しい事は無いが、
それでも百万円単位で違って来る葬儀の費用・・・。
兄弟で相談の上、僕達は葬式場に
「予約」を入れる事を決断した。
心の中で親父に「すまん」と謝りながら。
「早く死んでくれ」そう言ってるのも同然だが
一応の格好はつけて見舞いに行っては親父に理解出来ない
言葉を投げかける毎日。
申し込みから一週間経った頃、親父の顔に変化が見られた。
それまで反応しなかった瞳孔が医師の向けるペンライトに反応し、
だらしなく開きっ放しだった口も少し閉じたりと変化を見せ、
或いはひょっとしてという「期待」か「不安」かいずれか分からぬ
妙な感情が沸く・・・。
式場をキャンセルするのにも料金は必要であり、
一体どうすればいいのか僕ら兄弟は途方に暮れた。
「出来れば死んで欲しく無いが、ボロボロの体で生きられても困る。」
これが正直な気持ちであり、もっと正直な事を言えば
「もうここまで来たら・・・死んで欲しい」
そう思う気持ちが殆どだったように思う。
勿論誰一人としてそんな言葉を口には出さなかったが、
皆気持ちの中でそう思っていたに違い無い。
反応を見せた翌日、親父は更に変化を見せた。
顔が動き、ベッド脇にいる僕と視線を合わせたのだ。
医師の話では誰かと目を合わせたという認識は無いはずだという事で
たまたま顔が動いただけだろうと冷たい言葉が投げ掛けられ、
残念な様な 安堵したような 何とも言えない感情が自分を包み込み、
すっかり自己嫌悪に陥っていた。
更に翌日、親父は僕の顔を見て口を動かした。
何かを伝えようとしている様に見えたが、当然声にならないその口の動きは
何を意味するか僕には全く分からなかった。
何か言いたかったのか・・・医師が言うようにたまたまなのか・・・。
夜中10時。
面会時間を過ぎ、帰りの車の中で親父の口の動きを何度も思い浮かべたが
やはり意味など無かったのだろうと思う事にし、布団に入った。
「お父様が お亡くなりになられました。」
眠りについた僕の携帯電話に掛かって来た電話はその本来重い言葉を
あっさりと告げた。 恐らく言いなれているのであろう年配の看護婦からのもので、
僕の中では全く現実味の無い言葉に聞こえた。
親父が死にました。
もう5年前の事になりますが、もっと時間が経ってる様に感じる。
この話、最初に言ってた 「笑い」 が一体どこで生まれるのか?
という文章になってはいますが、 次 です。
最後は笑える日記にしたいと思っております。
昔の自分を懐かしみながらの 第10話
出来るだけ早目に次作(オチ)アップします。