「生と死を見つめる哲学」続編 | 慧アモンの和可知愛フォーラム

慧アモンの和可知愛フォーラム

哲学、アート、次世代の価値観



さて、続編です。

私にとって「生と死」は、ある意味では切り離せない、陰陽のようなものです。

どちらもあって当たり前、無しでは成り立たないものと言えば分かりやすいでしょうか?

実はこのタオ(陰陽)のシンボルマーク☯️は、単なるデザインではありません。


陰極まれば陽、陽極まれば陰、互いにその中心に反対の種を宿す。 


簡単に言えば、そんな意味の哲学が込められています。

これは全てに当てはまる可能性さえあります。

夜が極まれば昼の始まり、昼が極まれば夜の始まりです。

季節も経済も、権力も文明も…何ひとつとして、永遠に変わらないものがあるでしょうか?

何であれ、いつかはその反対側に転じてゆく運命の中で一時的に存在している筈です。

さぁ、私やあなたの命…やはりこの法則の中のひとつに過ぎません。

生があれば、やがて死がやって来るのは誰しも同じことです。

大切なのは生きているうちに、そのことをしっかり受け止めて、大きな流れと戦わないで死がやって来た時には死を受け入れることだろうと思います。


私が見たところ、多くの人が死後の救いを求めたり、あるいは死後の苦しみを怖れたりしています。

何故、未知のことにそんな観念を持つ必要があるのか?私には分かりません。

おそらくは様々な宗教から、そのような観念は植え付けられています。

あの仏陀でさえ、そしてあのイエスでさえ…残念ながら、死後の苦しみや救いに言及しているから驚くしかありません!


私はと言えば…死後は死後に任せる、極めてシンプルな哲学というより「覚悟」です。

この宇宙の大きな大きな流れを信頼するとは、そんなことではないでしょうか?

仏陀やイエスよりも、この点に関してはクリシュナムルティやオショウ・ラジニーシあたりが私に近いスタンスなので、是非とも一読をお勧めします。


二人とも数十年前までは、インドで生きていた人物です。

もちろん二人とも私のように、仏陀やイエスをリスペクトしていた人間です。


但し、何もかにも残された言葉の全てを信じるということではありません。

やはり大切なのは、自分自身の哲学ということだろうと思います。

私も死後に関しては、仏陀やイエスとは明らかに違います。

「死後は死後に任せる」

朝が来たら起きる、昼は昼の活動をし…夜が来たら眠りに就く。


これは、自然な流れというしかありません。

生まれた以上は精一杯生きて、死が
やって来たら大きな流れに任せる。

どこか不自然でしょうか?

何故、生きているうちに死後の救いや苦しみを案ずる必要があるのか?私には分かりません!

そんな陰陽の哲学から、輪廻は否定することの方が不自然な気もします。

但し、それを永遠の「苦」という捉え方は仏陀の若い頃の話であって、般若心経を説いた時期とは明らかに違います。

私に言わせたら、般若心経こそが人類史上…最高にして最後の哲学かも知れません。


陰陽の哲学、般若心経という哲学、これが生だけでなく生と死を見つめる哲学だと私は捉えています。


人類が宗教を否定するのではなく、理性や哲学の成長によって卒業して行く時代。

この混迷の時代の今こそが…その最大のチャンスだと感じているのは私だけでしょうか?



それでは、また近いうちに!!