賢者ならいつでも何処にでもいる可能性があるのに対して、聖者や聖人という人物像はある意味ではバーチャルな存在です。
私に言わせたら、これはスーパースターとファンの関係に似ていると言えば驚くでしょうか?
つまり、誰かにとってはスーパースターだとしても・・・他の誰かにとってはどうということもない人間だったり、あるいは最低の人間だったりするということに似ています。
イスラム教の人にとってはキリストなんか神でもスーパースターでもないように、その反対にキリスト教の人にとってはマホメットなんか神でもスーパースターでもない訳です。
つまり、聖人とはある特定の人たちの自己投影だったりファン心理が作り上げている虚像という側面があるのではないでしょうか?
もちろん賢者も、誰にとっても賢者という訳ではなく・・・理解不能な人が多いのも事実です。
ところが賢者は聖人のように雲の上に祭り上げられることはなく、その体験から来る知恵の言葉が役立つ人にだけ賢者と思われるだけです。
まぁ、分からない人にとっては賢者とさえ見えないどころか、変な奴とか嫌な奴?と映る可能性は常にあります(笑)
だから、だからこそ・・・賢者は後に宗教の教祖になることは極めて少ないような気もします。
賢者の中で後に聖者と崇められた人物の代表が、イエスと仏陀と言えば分かりやすいでしょうか?
但し・・・私はこの二人に関しては、賢者として自分もそのような道を歩もうとしない限り、結局は何の役にも立たないどころか、自らの成長を妨げる可能性さえ感じている人間です。
雲の上のいと高きところに追いやって、自分は下から拝んだり信じたり・・・さぁ、何かの役に立つでしょうか?
そもそも、あの二人は脇の下とか処女から生まれという話・・・これを信じる人にもそれなりの自由があるとは思いますが・・・。
私はと言えば、そんな趣味?はありません!
まぁ、好みの違いと思って頂ければ幸いです(笑)
ファン心理、自己投影、自己同一視・・・なんと呼ぼうとこれらは自らの成長の妨げになるほど、その相手を神格化している筈です。
私に言わせたら、これはリスペクトでも分かち合いでもありません。
ただ近くにいるだけで、あるいはその姿を見るだけでうっとり・・・まぁ、一種の擬似恋愛だろうと思います。
ところが、そんなファンや信奉者は精神的な成長に何かいびつな面がある可能性も否定は出来ません。
例えば、高学歴の人たちがオウム真理教に洗脳されたのも、教祖を聖者とか聖人と信じたからです。
更に、もっと最悪なのはジョン・レノンの熱狂的なファンがジョン・レノンの真の姿を見ようとせずに、自己投影した姿に執着するあまり・・・ついにはその人を殺してしまうという不幸。
カリスマ性と言えば、ポジティブな面だけが取り沙汰されますが、実はイエスや聖徳太子もそのあまりにも並外れたカリスマ性のために、殺されたという事実を忘れてはならない筈です。
さぁ、聖者と賢者の違い・・・賢者ならどんな時代でも実在するのに対して、聖者や聖人は見る側の投影という話、少しは分かって頂けたでしょうか?
私は賢者も聖者も、お巡りさんが誰から見てお巡りさんだという客観的な事実とは何かが違うような気がしてなりません。
あなたの周りにも賢者なら、きっと何人かいる筈です。
くれぐれも、そんな人を雲の上に追いやったりなんかしないで下さい!(笑)
賢者に接する時は、誠意と熱意からの質問が最も自然な接し方だろうと思います。
何故なら、もしもその人が本物の賢者なら・・・あなたのどんな素朴な質問にでも必ずや何かのヒントを与えてくれるからです。
因みに「そんなことも知らないのか?」という人は、私に言わせたら賢者ではありません。
あっ!そんな人こそ雲の上にでも何処にでもご自由に・・・というこのあたりが潮時でしょうか?
それでは、また近いうちに!!