厳しさだけで、優しさのない人。
反対に、優しさだけで厳しさのない人。
さあ、今日はこのあたりを掘り下げてみようと思う。
先ほどのような人の厳しさは、果たして本物だろうか?
そして、その優しさは本物だろうか?
結論から言えば、私にとっては、どちらも疑問符がついてしまう。
そのふたつは、比例してこそ本物…そう思うのは私だけだろうか?
世の中には私のことを、かなり厳しい人だと捉えている人もいる。
反対に、優しいと捉える人もいる。
では、私自身はというと…もちろん普通だとしか思っていない。
私は少なくとも、厳しい人とか、あるいは優しい人とかのレッテルには興味などないし、どう見て欲しいということもない。
さあ、ここで一枚の紙を思い浮かべてみて欲しい。
表だけ…あるいは裏だけを大きくしたり、小さくしたり出来るだろうか?
誰がどう考えても、そのふたつは比例してしまう。
私は厳しさと優しさの関係も、今の一枚の紙のようなものだと捉えている。
たとえば、大切に育てている植木にこんもりと雪が積もっているとしよう。
時間のゆとりのある時は、丁寧に手で払うことも出来るが、一刻を争う時は?
そう、木刀で一撃ということもあり得る。
手が優しさで、木刀が厳しさということになる。
私は手だけを使いたいとか、木刀だけを使いたいと思う必要はどこにもないのでは?
ケースバイケース…要するに、結果として雪の重みから植木を守れるかどうか、肝心なのはこちらであることは言うまでもない。
優しさのない厳しさは、私に言わせたら冷た過ぎることを意味する。
反対に、厳しさのない優しさは甘過ぎることを意味する。
厳しい人とか優しい人とかよりも、もっと大切なことがあるように思う。
どちらが裏でも表でも、その一枚の紙を大きくすることが肝心なのでは?
器が大きい…それはこんなことを意味するようにも思う。
厳しさと優しさのバランス…足りない方を心掛けるしかないのでは?
厳しさと
優しさそれは
裏表。