求めよ、さらば与えられん。
叩けよ、さらば開かれん。
誰もが知っている、イエスの有名な言葉である。
いくら一般論とは違うことを言う私でも、これをひっくり返そうという訳ではない。
何かを手に入れる…そのためには先ずは、求めるという動機が必要なことは、誰も異論のないところだろうと思う。
それがお金であれ、何かの名誉であれ、人は様々なものを求める。
但し、それが手に入ったからといって、誰もがそれだけで幸せになれるだろうか?
さあ、今日はこのあたりを掘り下げてみたい。
私はもちろん、求めることも、それが手に入ることも否定的に捉えてはいない。
それでも何か、大切なものを忘れていないだろうか?
その大切なもの…そう、それは求めることに先立つ[動機]とうことになる。
手に入れる行為の前に、求めるという動機がある。
では、何のために求めるのか?
こんなことを問いなおす人は、少ないかも知れない。
欲しいから求める…大方の人は、そこから始まっているに違いない。
ところが世の中は、そんなに甘くはない…いや、厳しいと言う方が近い。
求めても、誰もがそれを手に入れられる訳ではない。
仮に、それが手に入ったとしても、今度は違うものを求めて、なかなかリラックス出来ない人なら何処にでもいる。
私に言わせたら、いつかリラックスしようと思っている限り、人は永遠にリラックスなんか出来ない。
本当に心がリラックスしている人には、明らかにひとつの特徴がある。
彼らは与えている…しかも喜んで、人によってはさりげなく。
与えることによって、益々与えられているように見える。
私だって、本当はそうしたい。
ところが今は、あまり多くのものを持ってはいない。
但し、だから今は何も与えられないとは思わない。
私は可能な限り、多くの人が幸せになることを望んでいる。
ところが、当然万人という訳にはいかない。
縁のある人、私の言うことに耳を傾ける人…今のところは、これが限界かも知れない。
私もこれから様々なものを求める。
何故なら、それほど与えたいという動機が、私の内側に満ちているから…。
与えるために求める…これが本当に幸せになる道なのでは?
求めても
与える心
あればこそ。