求めても 与える心 あればこそ。アモンA131 | 慧アモンの和可知愛フォーラム

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求めよ、さらば与えられん。

叩けよ、さらば開かれん。

誰もが知っている、イエスの有名な言葉である。

いくら一般論とは違うことを言う私でも、これをひっくり返そうという訳ではない。

何かを手に入れる…そのためには先ずは、求めるという動機が必要なことは、誰も異論のないところだろうと思う。


それがお金であれ、何かの名誉であれ、人は様々なものを求める。

但し、それが手に入ったからといって、誰もがそれだけで幸せになれるだろうか?


さあ、今日はこのあたりを掘り下げてみたい。

私はもちろん、求めることも、それが手に入ることも否定的に捉えてはいない。

それでも何か、大切なものを忘れていないだろうか?


その大切なもの…そう、それは求めることに先立つ[動機]とうことになる。

手に入れる行為の前に、求めるという動機がある。

では、何のために求めるのか?

こんなことを問いなおす人は、少ないかも知れない。

欲しいから求める…大方の人は、そこから始まっているに違いない。

ところが世の中は、そんなに甘くはない…いや、厳しいと言う方が近い。


求めても、誰もがそれを手に入れられる訳ではない。

仮に、それが手に入ったとしても、今度は違うものを求めて、なかなかリラックス出来ない人なら何処にでもいる。

私に言わせたら、いつかリラックスしようと思っている限り、人は永遠にリラックスなんか出来ない。


本当に心がリラックスしている人には、明らかにひとつの特徴がある。

彼らは与えている…しかも喜んで、人によってはさりげなく。

与えることによって、益々与えられているように見える。

私だって、本当はそうしたい。

ところが今は、あまり多くのものを持ってはいない。

但し、だから今は何も与えられないとは思わない。

私は可能な限り、多くの人が幸せになることを望んでいる。
ところが、当然万人という訳にはいかない。

縁のある人、私の言うことに耳を傾ける人…今のところは、これが限界かも知れない。

私もこれから様々なものを求める。

何故なら、それほど与えたいという動機が、私の内側に満ちているから…。


与えるために求める…これが本当に幸せになる道なのでは?



求めても

与える心

あればこそ。