地上には、言葉の違う人達がいる。
肌の色が違う人達がいる。
宗教や価値観の違う人達もいる。
歴史も経済力も違う…違いはまだまだ数えきれない。
今の日本と、中国や韓国との関係…すべては、この違いから始まっていると言っても過言ではない。
ここで私ごときが、政治に関する話をしても始まらない。
何故なら、私は文化の立場からしか何も出来ない。
しかも、無名で微力…それを百も承知の上での一句であり、一石ということになる。
ボブ・ディランもジョン・レノンも、直接は戦争を止めさせる行動はとらなかった。
でも、どうだろう…彼ら残したメッセージは?
おそらく半永久的に、いや永遠に後世の人達に影響を与えると私は思う。
文化の力とは、そういうことかも知れない。
日本と中国や韓国の関係に限らず、職場でも家庭でも国会でも、価値観の相違は当然考えられる。
そして時々、それが表面化しても、何の不思議もない。
但し、対話を通して最終的には共存共栄の道を…それを見いだすのが器であり、知恵なのでは?
相手の立場を理解するゆとり、違いを認めるゆとり、そして、こちらの言い分も辛抱強く伝えるゆとり…。
これが鍵だろうと、私は思う。
そのゆとりを取り戻すには、心のリセットが問われる。
その秘訣が瞑想…と言っても、すぐに分かる人は少ないかも知れない。
そんなこともあり、瞑想的という言葉を使うようにしている。
たとえば、こんなことも瞑想的と言える。
星を眺める…花を見つめる…風を感じる、これらの何かの行為を意識的にゆっくり味わう。
そして、目を閉じて自分の心に問い掛けてみる。
命はどこから来たのか?
命は本当はいくつなのか?
花と鳥は、違うものなのか?
私と私でないものは、ひとつになれないものなのか?
こんなことを考えるのではなく、感じようとする。
これを何度も実践しない限り、瞑想的の意味を理解することは出来ない。
言葉やロジックの限界…残念ながら、私にはどうすることも出来ない。
あなたが、あなた自身がそれを望まない限り…。
但し、これだけは言っておきたい。
目の前に花がふたつあったとしても、その根元まで見て欲しい。
仮にそれが違う花だとしても、その土はどうだろうか?
ひとつの宇宙の、銀河系の、太陽系の地球の土、という極めて差のないものと言える。
同じアジアに咲いた花…兄弟喧嘩と思えないだろうか?
そろそろマクロの視点、仏の視座から見直してもいい頃…そう思うのは私だけだろうか?
花と花
根元を見れば
唯ひとつ。