早慶戦が注目されるようになりその後、1905(明治38)年4 月、早大野球部は安部磯雄の創立時の約束通り、日本初のアメリカ遠征へと出発。帰国後同年10 月、早慶戦が開催されこの試合から3 戦制で行われるようになりました。理由としてアメリカでは三回試合をして二勝したチームを勝者としていることから提案されたようです。ここから東京六大学野球リーグ戦の原型が確立されてきたようです。

 

この試合で観衆の注目を集めたのが、早稲田の新調したユニホームであり、赤みがかったうす茶地に海老茶色の「WASEDA」 のマーク、アンダーシャツというスタイルでした。試合も、1勝1 敗で迎えた第3戦では、応援合戦も盛んになりました。慶應側は、8 回に突然上着を脱ぎ、「KO」の2 文字を白くスタンドに浮き出させたようです。一方、早稲田側も「WU」 と記した海老茶色の小旗数100 本をもっての応援と応援歌を歌い出したようです。

 

おそらくこの1905(明治38)年の早慶戦の位から現在のように整然と統率のとれた応援が始まったと現時点では推測されます。

 

その後、1906(明治39)年の4月には、京都の三高野球部が初上京し、一高と三高の定期戦が始まるようになりました。その際に早慶とも試合を行い、5月になると、早慶両校が一高に挑戦することになり、一高は1904 年につづいて早慶に敗れてしまいました。これを機に早慶戦とその応援が一層盛り上がり、同年の10 月に早慶戦が行われますが、この早慶戦を最後に1925(大正14)年まで中止となってしまいます。中止の理由は。