1905(明治38)年以降早慶戦が中止に至った経緯は、試合前の球場を占領しようとの応援団の徹夜騒ぎや警察からの忠告などが多くあり、不測の事態が起こることを危ぶみ中止を命ずるほかないとの見地からのようです。
当時、応援学生同士の衝突を未然に防ぐために、両校の主将は話し合いして、「応援団の数を双方250 人とする」と約束を結んで第一戦を迎えました。しかし、観客数は、最大でも2 万人収容が精一杯である戸塚球場に4 万人が殺到したと言われているそうです。
第三戦になると、両校学生の動きが過激になり慶應側は、前日から学内に泊り込んで早朝から応援席を占拠しようとしたり、柔道着を着て試合後の乱闘に備えるも者も出てきていたといい、このような状況に対して、試合当日の朝、中止が決定されたようです。
このように学生を一つにまとめ統率のとれた応援組織つまり応援団の集団が望むと望まざるとにかかわらず自然発生的に完成していったものと推測されます。
日本の応援団文化の始まりであり、神宮球場へ応援に来た学生等を一つにまとめ応援する東京六大学応援団連盟のスタイルは今も受け継がれています。