人々(衆生)は、苦に住しており、その苦から抜け出す方法を知らず、そしてそれを自力で見出すことはできません。
そのことをもろもろの如来が知って、衆生に向けて説いた教えが仏教であり、衆生はこの一なる道によってのみ苦から抜け出すことが可能となるのです。
ところで、衆生の苦の根源は何なのでしょうか?
その根本の理由を構成概念を用いて説明するならば、衆生がこの名称と形態(nama-rupa)を有し、世を顚倒して見ているためということになりますが、より具体的なことがらで言えば衆生が迷妄に陥り、また執著にもとづいてしあわせを求めているということに尽きるでしょう。
ここで、執著とは我執(我ありという思い)および愛執(我がものという思い)を指しています。
このようなことから、仏教では、
「迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。(真理のことば・ダンマパダ 第十八章 汚れ 中村元訳 岩波文庫)」
とされ、これらを滅し・断じることによって衆生は一切の苦悩から解脱することを得ると説かれるのです。
ちなみに、人々(衆生)がこの名称と形態(nama-rupa)のために世を顚倒して見ていることについては、2023年12月4日の記事で書いていますので、興味がある方は参照されるとよいでしょう。
ただし、この名称と形態(nama-rupa)は人々(衆生)の認識作用に生来的に影響を及ぼしており、指摘されてもそれがしあわせの希求を実現不可能にしていることを認知することは容易ではありません。
いとも聡明な人が、これらの存在を微かに覚知し、これらを滅し・断じない限り本当の意味でのしあわせを得ることはできないのだと理解するのです。
そうして、仏道を歩み、功徳を積み、ついに解脱して、眼ある人(=ブッダ)と呼ばれる存在になるのです。
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