覚った人の行為は、大団円の結末を見る。

 

これは、本当のことです。

 

では、人々(衆生)の行為は大団円に帰着し得るのでしょうか?

 

微妙な問いですが、基本的には衆生の行為は大団円の結末を見ることはないと考えるのが自然でしょう。

 

と言うのは、衆生は心がこの名称と形態(nama-rupa)に覆われた存在であり、この世を正しく認知することそれ自体がそもそも不可能な状態にあるからです。

 

しかも、衆生はそのことを自覚していません。

 

このため、衆生が良い結果に結びつくようにと計らえば計らうほど、その結果はその想いとは違うものになってしまいます。

 

例えば、すべて直線で構成された錯覚図形の線が曲がって見えるからと言って、それを真っ直ぐにすることは不可能であるようなものです。

 

真っ直ぐにしようとすればするほど、直線からかけ離れてしまうことになるからです。

 

そして、この根底の錯誤ゆえに世間の歓楽は楽しみは少なく、苦悩が大きいものとなってしまうのです。

 

つまり、衆生の行為は、それがどんなに幸せを求めて為したものであってもすべて苦に帰着してしまうということなのです。

 

その一方で、覚った人の行為は安楽で、静かで、自分を含めて誰一人悲しませることのない行為となり、それゆえにこれを大団円と名づけるのです。

 

ところで、衆生であっても大団円を見ることはあり得るでしょう。

 

ただし、それは衆生が世の何を見てもそれについて余計なことを為さないことが前提となります。

 

具体的には、
 
「ありのままに見るのではなく、誤って見るのではなく、見ないのではなく、見て見ぬ振りをするのでもない。」
 
このように世の中を見て、以て正しい行為を為したとき、それは大団円に帰着することでしょう。
 
そして、そのような人はすでにニルヴァーナの近くにあることでしょう。
 
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