今日の早天祈祷会の後の、コーヒータイムの時に、牧師先生が語られた話の中で、新たに気付かされたことがあった。
「10人のライ病の人たちが、遠くから、イエス様に『私たちを憐んで下さい。』と声を張り上げて言った。イエス様が『行って、自分の体を祭司に見せなさい。』と言われた。すると彼らは、行く途中できよめられた。
その中の1人のサマリヤ人だけが、イエス様に感謝する為に戻り、その報告をした。イエス様が『他の9人はどうした?』と聞かれた。」(ルカ17:11-19)
ここの箇所で、帰って来たサマリヤ人だけが本当の礼拝をしたと言う事を聞いて、そうだったのかと初めて知った。
祭司も祭壇も、神殿もそしてモーセやアブラハム、ダビデなど聖書の登場人物も全てがイエス様を象徴的に現す影である。
イエス様が、「神の本質の完全な現れ」(ヘブル1:3)であり、その実体である。
「聖書は、イエス様について書かれたものである」(ヨハネ5:39)と、何回も聞いていたが、まだまだ見えてない部分が多い事を思った。
アベルはカインによって殺されたが、その事は、イエス様が律法(パリサイ人や律法学者)に殺される事を隠喩していると。
イザヤやエレミヤなど、預言者たちが迫害されたが、イエス様が「預言者たちを殺し、お前たちに遣わされた者たちを石で打ち殺す者よ・・・」(ルカ13:34)と言われた様に、旧約聖書全体がイエス様の比喩で満ち満ちている。
そして聖書は、アレゴリー(比喩)で書かれている部分が多いので、そこの解釈をイエス様に焦点を合わせないで、自分勝手に解釈すると、異端が出て来たりすると言われた。