今日の礼拝の説教は、「祝福される幸いな者」という題であった。聖書はルカ1:48でした。ニコ

 

 卑しいはしためであったマリヤが、イエス様を身ごもった。当の本人は、天使の御告げを聞いて、何が起こったか分からず当惑していたが、イエス様が成長するにつれて、イエス様の言動を通して、徐々に分かって行った。目

 

 エルサレムに礼拝に行った帰り道、迷子になったイエス様が、会堂で教師たちと会話している姿を見つけ、「何をしているんですか?探していたんですよ!」と言った時に、イエス様は「私が父の家にいるのを、御存知なかったのですか?」と答えている。マリヤは、その言葉を心に留めたと聖書は言っている。乙女のトキメキ(ルカ2:43-51 参照) 

 

 イエス様の誕生の時にも、星に導かれて駆けつけて来た羊飼いたちの話を、マリヤは心に納めて思い巡らしたと書かれている。羊(ルカ2:17-19)

 

 

 イエス様の母親と兄弟たちが心配して近くに来た時に、弟子たちが「イエス様の母上と兄弟たちが来ています。」と知らせた。それに対して、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とは誰の事ですか?誰でも父の御心を行うものは、わたしの母、わたしの兄弟です。」と答えられた。飛び出すハート(マルコの3:31-35)

 

 カナの婚礼で、客を接待する葡萄酒が無くなったので、困ったマリヤはイエス様に相談に来た。その時、イエス様はマリヤに対し「女の方、わたしとあなたと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」と答えている。(ヨハネ2:4)「女の方」はちょっと冷たい表現に聞こえる。わたしの時は十字架の時であるとされる。十字架

 

 

 もちろんマリヤは、イエス様の十字架の死を見届け、復活にも立ち会って、イエス様を主として信じていたし兄弟たちも復活後のイエス様を主と信じ、少なくともヤコブとユダは、聖書に手紙も残っている。メモ

 

 マリヤは、主を地上に生み出す管(母)としての役割を果たした後は、主の前に一信徒として仕えた。ニコニコ

 

 カトリックでは、そのマリヤを主を生み出した母として偶像化して、イエス様以上に崇拝している。マリヤを描くときはいつも赤子を抱く母親として絵になっているが、それはマリヤを大きくイエスを小さくしてると言う事を聞いて、そうなのかと驚いた。その状況は、イエス様が十字架以前は、パリサイ人、律法学者に迫害されたように、天に帰られた後は、カトリックのマリヤ崇拝によって迫害されていると言う話にも驚かされた。ガーン

 

 天使からの神の御告げを受けた時、マリヤは「神が、この卑しいはしために目を止めて下さった。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」と言ったが、主を受け入れた私たちも、私の中に主が来て下さり、マリヤと同じく、幸いな者と呼ばれる事を知って嬉しくなった。爆  笑


 今日の牧師先生のメッセージを聞いた感想を、もう一人の男性の信徒(M)さんに聞いてみた。と言うのは、私はいささか後半、同じことを何回も繰り返し言われるので、そろそろ終わらないかな~と、思っていたので、聞いてみたかったのである。ぼけー

 

 Mさんは、「いや~、マリヤの恵みが、私にも来ているんだーと知って感動した。」と言っていたが、私はそれを聞いて、悔い改めさせられた。牧師の口を通して語られる御言葉は、どんなにつまらない事であっても、また何回も同じ繰り返しであっても、その背後にある霊を感じ取らなければならないんだと思った。メラメラ