毎週水曜日は、教会で「日ごとに湧く泉」
今日の分かち合いの箇所は、イザヤ書34:1-17のところであ
ここに「主が怒り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされた」(34:2)
そして設問の1つに、「神様に敵対して罪の奴隷として生きるエドムが、
私は、この設問を見て、マタイ25章の白い御座の裁きで、
私はこの箇所や、似たような裁きの場面に出くわす度に、
似たような裁きの場面の1つは、ヨシュアが主の命令に従って、カナンの地の31人の王を滅ぼし尽
ところが、昨日予習でここの所を読んで、
イエス様もエルサレムを非難して「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、お前の子らを集めようとした事か。それなのにお前たちはそれを望まなかった。」(マタイ23:37)と言っておられる。
神様の愛が、全く通じない人達がいるのだと思った。
また「ミッション・バラバ」(注)
彼らも悔い改めれば、救われるのに、その事が通じない。
「わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。」(イザヤ65:1-2)
「しかし、おまえたち、主を捨てる者たちよ、・・・わたしはおまえたちを剣に渡す。それでお前たちはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語り掛けても聞かず、わたしの目に悪であることを行い、わたしが喜ばないことを選んだからだ。」(イザヤ65:11-12)
悔い改めも、聖霊の働きがないと出来ないのだと思った。
|