4月から始まったNHKの朝ドラ「なつぞら」を見ていて、涙を流すことが多い。主人公のなつの父親が戦争で亡くなり、戦災孤児になったなつだが、父親の戦友に連れられて北海道へ行く。北海道の広い野原で乳牛の乳しぼりを手伝いながら、だんだん元気を取り戻すなつだが、時折、東京での戦災孤児の体験が思い出され、明るくふるまうなつの原図として存在していると言うストーリーで、これからどのように展開していくのか楽しみながら見ている。
今、神学校の通信教育で、聖書を学んでいるが、色々な再発見をしている。以前の教会で学んでいた内容をはるかに超えて、その深さ、その霊的な解釈に深く感動をしている。
創世記でのアダム・エバの堕落以後、罪に陥った人類のイエス様による救いを計画されていた神様(創世記3:15)、堕落した結果、アダムは額に汗して働くようになり、エバには産みの苦しみを増し、蛇は腹ばいで歩きちりを食べるようになる状況が述べられている。(創世記3:14-19)
そして旧約聖書のいたるところでイエス様の十字架が予告され、人類がそのことにきずくように、様々な出来事や人物像を通して暗示されてきた。以前、「聖書は金太郎飴」というブログを書いたが、その例えのように聖書66巻を通して、愛する独り子イエスを私たちのために十字架につけるほどの愛情を示してこられた。
この世の支配者が、長きにわたって思うように私たちを、この世の文化や様々なマスコミ、政治、経済などを用いて操ってきたが、終わりの日にはイエス様が天の雲に乗って再臨し、炎の中にみ使いを従えて、裁き主として来られて、羊とヤギに分けられる。(マタイ24:30、テサロニケⅡ1:7、マタイ25:31-34)
その時はノアの洪水の時と同じである。皆が飲み食い娶りしている時に、突然に神の裁きがやってくる。またその前兆があるとも書いてある。(マタイ24:3)
書いているうちに、少し混乱してきたが、言いたかったことは、世の中の出来事は長い目で見て、すべて神さまの御計画の中にあって動いていて、その原図としてアダム・エバの不従順による堕落と、イエス様の十字架の死と復活による救いの完成というものがあるという事。私たちはそれを信じる信仰によって救われる。
そして、全てが神様の愛によって貫かれている。なつが心の中に宝物として持っている「お父さんを中心にした家族団らんのスケッチ」のように、約束された千年王国とその後の新天新地が待っている。