「信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えない事を確信させる事である」(ヘブル11/1)から始まるヘブル書11章が、しっくりと心に入って来ないモヤモヤ感が、以前からあった。

 
 どうして見てない事を確信出来るのだろうと。
 
 復活されたイエス様が、不信するトマスに「見て信ずる者でなく、見ないで信ずる者となりなさい」(ヨハネ20/29)と言われているので、見ないで信ずる事が、とても重要な事であると思われる。
 
 と言うのは見て信ずる事は、誰にでも出来る事であるから。
 
 イエス様は、長い年月、澱りものに出血の病を持つ女が、イエス様の衣に触れてその病が退く事を、感じた時「娘よ、あなたの信仰があなたを治した」と言われた。(マルコ5/25-34)
 
 イエス様の衣にでも触れれば、きっと治るに違いないと信じた信仰を取られた。
 
 私達はどうであろうか? 自分が特別に困った事に直面してない限り、見向きもしないのではないだろうか? 
 
 見てない事を信ずるのは、難しい。
 私はその事で苦い経験を、何回もしている。
 
 卑近な例で恥ずかしいが、しかもこのテーマと些か違う様な気もするが、恥を偲んで書くことにする。
 
 ①若い頃、医者として学位を取るために、自分の出身大学でない大学で、週一回、専攻生として通いながら、10年以上かかって学位を貰った事がある。
 
 その学位授与式の時、私はその儀式を軽く考えて、正式のスーツでなくて、上下の違うブレザーで出席し、肩身の狭い思いをしながら賞状を貰った。
 
 ②ある知人の親族のお通夜に出席した時も、同じ様な失敗をした。
 
 ③ある集会で私が発表する事が、前から分かっていたのに、充分な準備をせず、何とかなると高をくくって、当日を迎え、そこでも失敗した。
 
 ちょっと卑近過ぎて、しかも結果が見え見えなのに、どうしてこう何回も同じ失敗を繰り返すのだろう!
 
 自分が傲慢になっていたのだろう。
 
 丁度、花婿を迎える娘たちが、ローソクと油を準備して待つ聖書の話しの、失敗した娘たちと同じである。(マタイ25/1-12)
 
 それとは、反対に私の家内は、何事にもよく準備して臨む人であった。ある集会で自分が講師として1時間の話を依頼された時など、彼女が話す内容を、私がパソコンで打ち込みながら原稿を準備して、何回も校正していた。
 
 家に来たお客様を見送る時も、必ず玄関を出て、道路までお見送りする姿を見ながら、私は多くの事を彼女から学んだ。
 
 先を見通す力、その事が次に何をもたらすかを分かっているかの如く、身についていた。
 
 少し本題からずれてしまったが、やがて来たるべき再臨を待ち望むクリスチャンとして、聖書が預言している如く、その時が必ず来ると確信しつつ、今を準備して生きて行こうと思っている。