脳の真ん中(松果体のあたり)で考えてみる(2) | 鳳凰記(万象算命創楽院公式ブログ)

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2016年春、『万象算命創楽院』は本拠地を東京・府中から福岡・博多へ!
算命学宗家直系、本流の正しい算命学を全世界に伝え広めるため、
算命学者・伯耆弘徳(ほうきこうとく)が再び動き出しました。

(facebookより引用)

 

私たちは、頭でものを考えているとき、これまでに経験したこと、知っていることからしか、考えることができない。それは、これまでに保存してきた情報を、これまでの経験に照らし合わせて処理しているだけだからだ。だから、過去に起こったことがいつも繰り返されるようにしか思えないし、これまで成功しなかったことは、これからも成功しないように思えたりする。

 

ところが、現実に起こることは、もっとずっと多様で不思議なことだったりするのだ。まったく思ってもみなかったようなことが起こることなんて、実はいくらでもある。変化の多い人生を送ってきた人なら、そんなことは何度も経験していると思う。現実というものは、私たちが頭で考え出せるものよりも、はるかに多様で、はるかに多くの可能性に満ちているのだ。

 

ところで、そういう現実の多様性、多様な可能性を感じ取る感性も私たちには備わっている。それが霊感とか宇宙意識とか言われるものだ。そしてその受容器とは、大脳ではなくて、頭の真ん中の松果体のあるあたりの脳であるように思える。

 

脳のその部分がピピっと反応して、大脳から役に立つ情報をパパッと集めてきて、ネットワークができる。つまりそれが思考というものなのだけれど、それは天才のひらめきのようなものだ。そして、そうした思考は、現実に世界を変える力を持つ。

 

ところが、そうした思考は、普通の人間には出来ないもののように思われていることが多い。そして、そうした思考をする代わりに、大脳で処理するようなことばかりをやらされるのが、学校教育というものだったりする。脳の真ん中のあたりでする天才的な思考をしていると、学校ではふざけているとか、不真面目だとか思われることになる。そればかりか、発達障害だとか頭がおかしいんじゃないかとか疑われることもある。

 

天才度を測るテストというのがあって、それは、一つの質問から、どれだけ多くのどれだけ幅広い答えが出せるかを測るというものなのだそうだ。たくさんのいろいろな答えを出せれば出せるほど、天才度が高い。このテストをいろいろな年齢の子供にやったところ、三才までの子供は、ほとんど100%が天才と言える成績だった。それが、学校に行き始めると、どんどん下がっていき、義務教育を終える頃には、ごくわずかな子供だけが天才のレベルに達する状態だった。

 

学校教育は、近代国家ができてから始まったので、日本では明治期からだ。近代の学校制度というものは、国民が兵役に行けたり、労働者として指示に従えるように教育することを目的として出来ているわけなので、自分で考えるようなことは、そもそも目的にしていない。独自の思考をする力などは、むしろない方がいいのだ。自分で考えるのではなく、ただ言われたことを処理するように、教育されている。だから、独自の発想などをする子供は、しばしば問題児扱いされているし、大人ならば異端者扱いされていたりもする。

 

あるいは、まさにそれこそ頭のチャクラの封印だったのではないかと思う。それが頭頂チャクラなのか、松果体なのか、何なのかわからない。私にはまるで、頭頂チャクラが実は頭頂ではなく、松果体のところ、つまり頭の底の部分だったのではないかとさえ思えている。何と呼ぶのかはわからないけれど、とにかくそのあたりの脳こそは、宇宙意識を受け取って、天才的な思考、生きた思考をするセンターのように思える。

 

世界を変える発想、天才的な発想といわれるものは、窮地に陥ったようなときに、どこからともなく閃いてやってくることが多い。それは、学んできたことから積み上げていってできていくといったものではなく、必要にせまられたとき、ふっと湧いてくるように、やってくるのだ。

 

すると、それまでに積み上げてきた技術や知識から、パパッと必要な情報が集めれれてきて、五感や身体の筋肉もピピっと繋がって動き出し、作品ができていく。そうした天才的な創造というものは、この頭の底のところにある思考のセンターが中心になって起こることなのじゃないかと思う。

 

こうした思考、天才的と言われる思考、脳の底の方を中心にしてなされていく思考こそは、生きた思考というものだ。それは頭で考えられたとはいえ、現実的な、身体的な感覚を持っていて、しかもワクワクするような全身の喜びがある。それを考えると、これまでずっと、すばらしいもの、高いもの、目指すべきものと思えていた高山のような学術体系や理論などが、何だか色あせたつまらないものに思えてきてしまう。それもまた必要なものかもしれないけれど、しょせんは脳の底の方でする生きた思考のツールでしかなく、それ自体に価値があるものではないように思えてくる。

 

それで、星座のように天高くあった知識の世界が、シューンと一気に存在感を失って、世界が平らになってしまったような気がした。しかしそのときに、この頭の底のところにある生きた思考、大地に根づいた、身体感覚のある思考というものが、一気に存在感を増してきたのだ。思考するとは、実はこれほどに楽しく、全身の力が湧くようなものだったのだ。これが今までずっと封じ込められていたものだったのだ。

 

(引用ここまで)

 

 

『不自然なことは、やめましょう。』

 

 

 

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