昨日(3/28・土)は午前中から博多のキャナルシティに行って、待望の映画『ストリート・キングダム』を観て来ました。
1970年代の終わりから80年代初頭にかけての日本のパンクロックシーン、東京ロッカーズと呼ばれたムーブメントとその周辺を題材とした作品です。



70年代の終わり頃から80年初頭あたりというと、
当時の私は青学の学生で、学業はそっちのけでギターを弾き、バンドとか音楽活動がメインの親不孝者でした。
ちなみにサザンオールスターズの桑田さんは同じ経営学部の2年先輩(所属音楽サークルは別)、あの頃の青学には音楽系のサークルが沢山あって、活動しているバンドも100以上あったと思います。プロミュージシャンになった人もチラホラいました。
私がやってた音楽はパンクロックとかではなく、ロック系でもちょっとフュージョン寄りのサウンドでした。ある人が私のやってたバンドのライブを聴いて「山下達郎とか原田真二がカシオペアをバックに歌っているような」という感想を頂いたことがありました。
(実際にヴォーカルの人はザ・スクエアのアルバムにゲスト参加し、全国ツアーを回ったこともありました。)
私自身、大学4年目には音楽学校(当時六本木にあったアン・スクール・オブ・コンテンポラリー・ミュージックという長い名前の学校)のギター科に入学し、バイト(音楽学校の学費と楽器の購入代金を稼ぐため)と音楽修行に明け暮れる生活で、結局大学は5年目に中退・・・。
両親には本当に申し訳なかったけど、でもどうしても音楽で喰えるようになりたかったんです。。。
1981年、82年あたりは幾つかのコンテストで入賞したり、活動はいい感じになりつつあったのですが、紹介された音楽事務所でいつの間にかヴォーカルの人だけが引き抜かれ、バンドはあっけなく空中分解・・・。
なんか騙されたような、裏切られたような、けっこうイヤな思いをしましたけど、まだまだ業界のことなどわかっていなかったし、結局は自分が甘かったんでしょうね。
でもその時の悔しい気持ちがあったからこそ、色々と頑張って翌83年の春、下北沢に「未来派レコーディングスペース、ザ・フェノメノン・スタジオ」という小さなレコーディングスタジオを起ち上げることが出来ました。
私はスタジオのオーナー兼エンジニア兼シンセサイザーオペレーターとして、インディーズのアーティストたちのレコード制作もずいぶん沢山やりました。まだ25歳でしたし、体力と根性は人一倍ありましたから(笑)
すいません、話を本題に戻さなくちゃ


イギリスのパンクロックバンド、セックスピストルズが衝撃的なデビューを果たしたのが1976年、私が目指していたタイプの音楽とは全く違うけど、でも発売されたアルバムは直ぐに買って聴いていました(当時のピストルズやストラングラーズ、ワイヤーあたりはかなり好きでした)。
77年あたりになると日本でもパンク系のバンドがどんどん出てきましたね。
映画『ストリート・キングダム、自分の音を鳴らせ。』は当時の東京ロッカーズと呼ばれたパンク、ニューウェイブ系の音楽ムーブメントを裏で支えていた写真家、地引雄一氏とその仲間たちにスポットを当てた作品、と言えばいいかな。
メジャーのレコード会社ではなく、アーティストたちがインディーズという自主制作レーベルを作って活動するという流れの先駆けが地引さんの「テレグラフレコード」だったんです。
あくまでも個人の意見として、70年代半ば以降、ロックがどんどん商業化、エンタメ化していくことにとても違和感を感じていて、それとは違うものを求めていた自分にとっては、当時のインディーズの台頭という流れにとても共感を憶えていました。
下北沢という土地に、メジャーレーベルとは異なる、新しい音を生み出せるレコーディングスタジオを創ろうと思い立ったのは、そういう理由もありました。それもあってテレグラフレコードの地引さんが初めてうちのスタジオに来て下さった時は、内心とても嬉しかったです。

あれからもう、今年で43年、ですか・・・
ロックが好きな人は是非、映画館に観に行ってください
