例えば、秋のT学会の支部総会に出席するために、その支部総会の会場があるH市のJR駅前に降り立ち、さて、支部総会の会場の最寄りのバス停まで行こうとして、路線バスに乗り込んでバスの後ろの方の座席に座り込んだ時に、僕の座席の窓側の席の人から「お早うございます。お久しぶりですね。元気にされていましたか。」と話しかけられたのはいいけれど、その先生のお名前を思い出せない時がたまにある。特にまずいのは、向こうはとても親し気に話しかけてくるのだが、こちらの方は、名前どころか、その先生がどう言う方なのかがさっぱり思い出せない時である。

 

 そう言う時は、「お早うございます。先生もお元気にされていましたか。研究の方は進んでらっしゃいますか。」と答えて、まずは、その先生がどんな研究をしているのかを探り、その先生と自分との関係性と接点を思い出すところから始めるのである。先生の研究内容を知れば、どういう専門なのかが分かるから、その先生のことについて思い出すための糸口になる訳である。しかし、敵もさることながら、「いやあー、私の方は臨床の方が忙しくて、なかなか研究の方は進んでいませんよ。論文にしたって、去年に簡単なケースレポートを1報出しただけなんです。」などと掴み所のない返事をしてきたりする。

 

 こうなると、研究面から攻めて行くのは無理なので、他の方向から探りを入れて行く必要が生じてくる。そこで先ずは「先生は、よくH市に来られるんですか。」と質問を投げかけてみる。すると、「私は新幹線で30分のО市に住んでいる割には、意外とH市には来ませんね。О市とH市との間には、何か目に見えない壁みたいなのが有るみたいですね。同じ規模の似たり寄ったりの地方都市同士なので、互いにあまり興味はないんでしょうね。」と答えてくる。

 

 その答えで、その先生はО市に在るО大学医学部か、О医療センターか、あるいはО市の東隣のK市に在る私立のK医科大学辺りの医師だと言うことが分かる。そこで、僕はО大学とK医科大学関係の知り合いについての記憶の糸を探ることになる。ところが、僕がО大学とK医科大学で知っている人は、僕が所属している主に2つの学会の支部会理事の関係の人と、それらの学会支部総会によく出席する人達に限られるのだが、いまバスの席の隣に座っている先生についての記憶は全くないのである。さあ、困った困った。その先生と僕とを結ぶ記憶の糸が全く見えてこないのである。

 

 いま僕の目の前にいる先生は、多分これから僕が出席しようとしているT学会の支部会の評議員の一員なのだろう。僕はその頃は、T学会の本部の理事をしており、その年は支部長も務めていたので、その先生がT学会西日本支部の理事ならば、当然顔見知りであるはずだから、その人は西日本支部の役員であったとしても、多分、理事ではなく、支部評議員であったのだろう。いくら支部とは言え、T学会の西日本支部には評議員が100人ぐらいはいるので、半分くらいの人は僕にとっての顔見知りではない訳だ。

 

 僕は、その年の評議員会では、支部長として評議委員会の議事を取り仕切っていたので、その先生にとっては僕は立派な顔見知りであるが、僕にとっては、いつぞや何処かの学会会場での演題発表の折にでも、互いの研究についての何らかの意見交換をしていないようであれば、僕がその先生を覚えている筈はなく、その先生は、僕にとっての顔見知りの一人には含まれていないと言うことになる。

 

 こうなれば仕方がない。隣に座って僕に親しそうに話しかけて来られるその先生を昔からの僕の親しい知り合いと言うことにしておいて、適当に話の相槌を打って時を過ごし、15分ほどのバスの移動時間をやり過ごし、T学会の支部総会の受付での記名を済ませてから、それとなく別行動に移るのが一番安全な方法である。そう言う判断に従って、その先生とは上辺だけで話を合わせ、必要に応じて相槌を打つという形での会話を続けていくのであった。

 

 そうこうするうちにバスは目指す停留所に到着して、我々はT学会の支部総会の受付に足を運んだ。学会参加費を支払い、学会参加証のカードをもらい、記名所でその参加証のカードに氏名と所属欄に記入する時に、その先生が氏名と所属を記入するのを、僕は素早く横目で見て、「〇〇先生(〇〇大学〇〇教室)」と言う記名内容を頭に叩き込んでから、やおら、その先生の名前をお呼びして、「それでは〇〇先生、私はこれからA会場に向かいますのでこれで失礼致します。」と述べてから、僕はそそとA会場へ向かうのであった。その時、その先生はB会場の方へ歩いて行ったようである。