名人はどこにでもいる (1)

 

 僕は、子供のころから字が下手のまま、この歳を迎えてしまいましたが、2年前に市の生涯教育講座で習字を習い始めました。少しは運筆を学んで、般若心経の写経をしてみたいと言う意図からでした。入門後、齢85歳の男の先生から、点、一、二、三と言った基本字画の書き方を学び、途中から転切、はね、払い、懸針を含め縦画の書き方などのいわゆる運筆なるものを習い、今では、或る程度難しい漢字の楷書と行書を練習するようになっています。とは言うものの、かなり字粒の格好は良くなってきてはいるものの、起筆で墨が入りすぎたり、右払いで筆がかすれてしまったりして、全体として満足の行くような習字を書くことは儘なりません。

 

 世には、書道の色々な流派があり、全国では何十万人と言う人たちが、習字の練習に励んでいます。そして15年以上も書道塾で練習を重ね、普通は三段の検定を合格すると師範の免状が与えられ、その流派の名前で書道塾を開くことが許されます。

 

僕の研究室で教授の秘書さんをしていた短大卒の娘さんは、師範の免許を持っていて、学会総会などを開くときに、「評議員受付」、「一般会員受付」、「学会参加証記名所」などの立て札(30センチx10センチ)に下書き無しの白紙の短冊に、事も無げにすらすらとそれらの字を毛筆で書いていくのですが、ぴったりとした大きさに字粒を揃えながら、短冊にバランス良く配置して書いていくのです。すごい技だなと、いたく感心したものでした。

 

 僕は、習字を習い始めてからもう2年も経つので、先生のお手本を見ながら、1枚の半紙に4字から6字までの色々な漢字の文言を書いていますが、予め赤マジックで枠を書き込んだ紙の上に半紙を重ねて書かないと、到底、字画のバランスが取れません。毛筆の熟練者は、普通に字が上手いと言うレベルではないのです。

 

 ところで、デパートの贈答品コーナーとか、スーパーのレジでは、贈答品の熨斗紙に、「御礼」とか「お祝い」などの表書きや名入れを書いてもらうことが多いのですが、あの字は、普通に字が上手い人に書けるものではありません。少なくともなにがしかの書道の流派で二段以上の検定に受かった有段者(出来れば師範の免状を持った人)にしか書けないものなのです。では誰が書くのかと言うと、そう言う職場には、必ず、書道の有段者や師範の免状を持つ人がいるのです。デパートの贈答用品コーナーには、必ず、そう言う人が常駐して働いています。普段は、企画や会計や在庫管理などの事務仕事をしているのですが、熨斗紙への表書きや名入れが必要になると、その毛筆の熟練者は、本務の事務仕事を休んで、熨斗紙を書く作業場へと足を運んでくるのです。

 

 当然、スーパーにも、会計や在庫管理や総務などの職場にそういう人が在籍していて、いつもは本務の事務仕事をしているのです。レジの方から、店内放送で「〇〇さん、レジまでお願いします。」と言うアナウンスがあると、店の奥の事務室の方から、その人がのこのこと歩いてレジにやって来て、熨斗紙書き用の小机に座って、筆ペンで必要な事項を熨斗紙にすらすらと書き込み、終わると再び、のこのこと奥の事務室に帰って戻って行くのです。

 

 この熨斗紙書きの仕事の賃金は如何ほどのものかは知りませんが、事務所からレジのところまで歩いてやってくる手間暇を考えて、1枚の熨斗袋に書き込んで、20円ぐらいのお駄賃でももらえるのでしょうか。そう言う便利な技を持っている人がいないと、そのスーパーでは贈答品は売れないでしょうから、お駄賃は左程高くはないでしょうが、とても大切な仕事には変わりは有りません。