書道と絵画芸術の差は何処にあるのか

 

 今日は、長年抱いてきた疑問について僕なりに考えてみたいと思います。僕は絵を描くのは得意で、図工や美術の科目で小学校から高校まで5段階評価で5以外は取ったことはありませんし、色々な美術作品展で特選や入選をしてきています。高校の時は、美術の先生から、「君は、是非とも東京芸大に進学して絵画を学びなさい。」と勧められたこともありました。

 

 ところが、僕は文字を書くのが非常に下手で、真面目にゆっくりと書いても、バランスの悪い字体になってしまいます。いくら心を込めて書いても、所謂、上手な字、きれいな字を書くことは出来ないのです。人物や風景のデッサンなら、何の苦労も無しに、そっくりそのままの風景や人物や器物などを描くことが出来るのですが、書道となると、いくらお手本を見て書いても、どうしても綺麗な字を書くことは出来ないのです。どちらも、風景や、人物や、器物や、文字の形をそのまま写し取れば良いはずなのですが、字体だけは、そっくりそのままを写し取ることが出来ないのです。

 

 僕は専門家ではないので、以下に述べることには誤りが多いかもしれませんが、僕が推測するには、絵を描く場合には、対象物から発せられた光の信号が描き手の目の網膜の視神経を刺激したことによって生じるシグナルが、後頭葉にある大脳皮質の視覚野に送られて目的物の形の認識が行われ、その情報が大脳皮質の視覚野から前頭葉にある運動連合野ひいては一次運動野や運動前野に送られ、さらに運動神経経由で筋肉に対象物の形を忠実に再現するための手指の運動に必要なシグナルが送られ、目に映った対象物の形を適正な手指の動きで描写すると言う仕組みで描くことが出来るのでしょう。

 

 ところが、字を書く場合には、いくら綺麗な字のお手本を見て書いても、上述の神経回路の何処かに何らかのシグナルの伝達不良があるように思われます。字の下手な人間でも、綺麗な字と言うものは理解できるので、目の網膜に映った文字の形についての情報は大脳皮質の視覚野までは正しく伝わっているのだと思います。ところが、お手本の綺麗な字体は一応視覚野では正しく認識されるものの、何らかの他の脳神経系(多分前頭葉に在る感情に関係した部分、例えば前頭前野かも知れません。)からの干渉によって、運動神経系を介しての手指の筋肉の動きがおかしくなってしまうのではないかと思われるのです。

 

 何故でしょう。僕が思うに、お手本の字体には書き手の意思や感情が強く込められているからではないでしょうか。これが、運動野に何らかの干渉現象を引き起こしているのかも知れません。確かに、風景や人物と言った絵画の対象物にはそうした感情は込められてはいません。でも、この考え方には大きな欠陥があります。画家の感情が込められた絵画を筆写する時には、ちゃんとその絵をそっくりに描くことが可能です。字を書く場合のように、お手本通りに書けないようなことにはなりません。描こうとする対象物に感情が込められていることが、対象物の正確な再現描写を妨げていると言うことは考えにくいのです。

 

 もう一つ大事な理由としては、次のことが考えられます。すなわち、お手本無しに字を書く場合には、字の下手な人は、バランスの取れたきれいな字のイメージが思い描きにくいことは事実ですので、そうしたことで綺麗な字を書くための手指の運動を妨げられているのかも知れません。

 

 何れにしても、きれいな字が書けると言うことはとても有利なことで、人前で字を書かないといけない状況は数多くありますが、絵を描かないといけないような状況は10年間に1度もないでしょう。僕はもう高齢者ですが、一度ぐらいは、祝賀会などの出席者の署名欄にまともな字を書けるように、遅ればせながら書道教室に通っています。もう1年ほど経ちますが、基本的な運筆の練習も3カ月ほどで一応合格して、今では5字の書を楷書と行書で練習しています。

 

 そこで気付いたのは、絵は何回でも筆を重ねることが出来るのですが、書では一瞬のうちに自分が書いていく文字の形を決め、筆筋の太さや、筆運びの速さやカスレ具合をきめなければならないことが良く分かりました。絵画は、筆の上塗りなど或る程度時間をかけての修正が大事ですが、書の方は字の形の見極めと連動した運筆が重要だと言うことです。

 

 現在では、まだまだのレベルですが、或る程度上達したら、般若心経の写経をしたいと思っています。