チェ ゲバラ | ジュエリーコンシェルジュ&CADデザイナーNoripyonのブログ

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こんばんは。



新たなテーマを作りました。


新たなテーマで、僕が、選ぶ偉大な人々をご紹介します。


最初として、『チェ ゲバラ』を取り上げました。



今日でもゲバラは、中南米を始めとした第三世界では絶大な人気を誇るカリスマです。


特にボリビアでは「イゲラの聖エルネスト」と呼ばれ聖人同然の扱い。


日本でもゲバラの肖像写真などがプリントされたTシャツが売られ、また、ゲバラの思想・行動についての知識の有無にかかわらずファッションの一環として着用する者もいる。



アメリカ人記者の「革命とは?」の質問に、チェ ゲバラは『革命とは愛だ!』と答えました。


アルゼンチン人のチェ ゲバラは、カストロと知り合い。


キューバの貧困と弾圧された民の苦しみから、民を解放するために反乱軍総勢82名でキューバに乗り込む。


医師であった彼には、安泰な生活が保証されていたにも関わらず・・・。


キューバ革命のメンバーに加わり・・・。


彼を動かしたもの、当時のキューバ国内における国民への弾圧、乳児死亡率の驚異的な高さ、人権すら認められない生活を送る人々を救うために。


彼が残した言葉、『革命とは愛だ!』。


この一言に、彼の偉大な人生は集約される。



現在のキューバは、医師の数が国民165人当たり1人と世界一多い。


乳児死亡率は1,000人当たり6.5人。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。



ハッピー ライフ☆Happy Life☆


本名:エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna、1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼンチン生まれの革命家で、キューバのゲリラ指導者。バスク系/アイルランド系アルゼンチン人、アルゼンチン系キューバ人。

「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は本来アルゼンチンのスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「やぁ」という砕けた挨拶。ゲバラが初対面の相手にしばしば「やぁ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた事から、キューバ人達が「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。ラテンアメリカでは通常「チェ」もしくは「エル・チェ(El Che、「el」は英語の「the」に相当する定冠詞。英語に訳すなら「the Hi」となる)と呼び、「チェ・ゲバラ」と呼ぶことは少ない。



ハッピー ライフ☆Happy Life☆
[チェ・ゲバラ 1959年1月2日]



革命家ゲバラ

ラバに乗るゲバラ
1958年11月妻と娘のイルディーダをメキシコに残し、単身キューバへ向かう。1956年11月25日、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名は8人乗りのレジャーボート「グランマ号(Granma)」に乗り込んだ。しかし収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。結局生きて上陸できたのは82人中、ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ、カミーロ・シエンフエゴスなどを含む12人のみだった。(生き残った人数が17人という説もある。)

上陸後、反乱軍はシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図った。その後キューバ国内の反政府勢力との合流に成功し、反乱軍は徐々に増強されていった。当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、革命軍の政治放送をするラジオ局(ラジオ・レベルデ)を設立するなど、政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。上陸から1年後の兵員増加に伴う部隊の再編成に際して、カミーロやラウルらを差し置き、カストロから第2軍(名前の上でだけは第4軍)のコマンダンテ(司令官。司令官の下に分隊と分隊を指揮する「隊長」がいる)に任命され、指揮権と少佐の階級を与えられ、名実ともにカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。

1958年12月29日にはこの第2軍を率いてキューバ第2の都市サンタ・クララに突入する。多数の市民の加勢もあり、これを制圧し、首都ハバナへの道筋を開いた。1959年1月1日午前2時10分、フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命し、1月8日カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の閣僚となるに至った。



人物

アメリカの爆撃で沈没した貨物船ラ・クブル号の犠牲者追悼行進に参加するカストロ(左端)とゲバラ(左から3番目)。誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。ゲリラ軍に志願して来た農民にも、資格として読み書きが出来る成年者である事を最低限要求し、条件を満たさない者はどんなに熱意があろうと容赦なく切った。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。


フランスの作家レジス・ドブレは、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。他にもジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」、ジョン・レノンには「世界で一番格好良い男」と評されている。カストロには「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評された。



ハッピー ライフ☆Happy Life☆

[コンゴでのチェ・ゲバラ]


再び革命の戦いへ、そして死


コンゴでのチェ・ゲバラゲバラは1965年中にコンゴ民主共和国に渡り、コンゴ動乱後混乱が続く現地で革命の指導を試みたが、コンゴの兵士達の士気の低さに失望する。

1967年10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、ボリビア・アンデスのチューロ渓谷の戦闘で、政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。部隊の指揮を務めていたボリビア人のウィリー(Simeon Cuba Sarabia)とともに、渓谷から7キロほど南にあるイゲラ村に連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバージェ・グランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラ村で午前10時に電報「パピ600(暗号「ゲバラを殺せ」)」の電文を受信。午後0時40分にウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹にM1小銃で銃撃された後、午後0時45分、政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡。

39歳でその壮絶な人生に幕を閉じた。


映画『CHEチェ 28歳の革命 | 39歳 別れの手紙』公式サイト


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