仕事は住宅やビルの建設に合わせた電気関係の施工。いずれは「現場の管理者に」と社長から言われた。アパートを借りる初期費用も会社が払ってくれた。
「経営者は労働者を機械としか見ないものだと思っていた。『君を育てる』と言われここで頑張ろうと誓った」。故郷の沖縄を出て、派遣労働者として働いてきた上原さんは、予想外の社長の言葉に胸が熱くなったという。
上原さんは沖縄県の高校を出て、県内の電気工事会社に6年勤務した。会社の業績が悪化し退社。県の雇用拡大事業で紹介された職に就いたが手取り11万円だった。「結婚して子どもが生まれたのに、これではやっていけない」と2005年に派遣で県外に出た。
06年夏から働いた愛知県豊田市の自動車部品工場には、沖縄出身の派遣労働者が多かった。ところが一部の労働者と派遣会社との間でトラブルが発生。騒動を嫌った工場が派遣会社との契約打切りを決め、上原さんら派遣社員は一斉に仕事を失った。
(読売新聞 2/20)
2005年頃沖縄では、ハローワークに派遣会社の特別ブースがあり、若い世代を製造業派遣へ促すような雰囲気があったそうです。「夫婦歓迎、カップル歓迎、家族寮あり、託児施設完備」、など実際は違っていたようですが、みんなが働きたくなるような甘い言葉で「派遣労働は稼げるし素晴らしい!!」と思わせ、「いずれは正社員に」と夢を温める若者も多かったそうです。実際上原さんも、正社員になれると思って頑張っていたそうです。しかし、製造業派遣は、増産減産に応じ便利にコストをコントロールできる労働力なのです。
ハローワークで実際は全然違う労働条件を提示して特別ブースで職業を紹介していたのですから、行政に責任があると思います。派遣から正社員になれると思って頑張ろうとする若者に「派遣はとても不安定で危険を伴う働き方なんだよ」と教えてあげる人がいなかったというのは社会の責任でもありますね。
上原さんは、その後「もう派遣はしない、死ぬ気で正社員の仕事を探す」と必死で職探しをし、今は大阪市近郊のアパートで家族4人で暮らしているそうです。
私も母として、子供たちの世代には雇用の多様化により働き方を選べるようになったとはいうけれど、便利な分危険を伴う、ということを知っておいてほしいと思っています。