杉山清貴「バンド解散の理由は〈一番いいときに〉。作詞作曲をプロに任せ〈売れなきゃ〉という必死さが | 神田岩本町の開業社労士のブログ

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2023年にデビュー40周年を迎えた杉山清貴&オメガトライブの全国ツアーが話題になっている。この全国ツアーは『杉山清貴&オメガトライブ〜FIRST FINALE TOUR 2024〜“LIVE EMOTION”』と銘打った“ファイナルツアー”だ。開始と同時に、東京・NHKホール(5月31日)での追加公演を発表したが、瞬く間にチケットが完売。そして、多くの声に後押しされるように、5月20日(月)NHKホールでの再追加公演も行われ、新たに9月15日、16日の公演も発表された。杉山さんに、ツアーへの思いやデビューからの足取りを聞いた。

 

キラキラしていた80年代。レコーディングはL.A.で

僕らが活動していた80年代は、本当にキラキラした時代でした。景気も良かったし、夢も希望もあった。若者が「早く大人になりたい」と思うような空気感がありました。

当時は、とにかく音楽番組が多かったという印象があります。しかも出演者がバラエティーに富んでいて、演歌の大御所もいればアイドルや新人のロックバンドもいる。そこに「ザ・芸能界」なヒエラルキーがあったのが、僕はちょっと苦手でしたが。(笑)

また、レコーディングと言えばほとんど海外。別に贅沢をしていたわけじゃなく、単純に日本でやるより海外のほうが安かったんです。たとえば日本のスタジオを1日中使うとなると、50~60万円ほどかかる。レコーディングが長引くと1~2ヵ月費やすこともあるので、アルバム一枚作るのに最低でも2000万円近くかかる計算になるわけです。

でも海外はスタジオ代が安いので、渡航費やホテル代を入れてもトントンになるんですね。ならば海外でのんびり録ったほうが気分転換にもなっていいと、ロンドンやL.A.などに行く人が多かった。ちなみに僕らはL.A.でした。

海外は日本より働く人の権利がしっかりしていて、スタジオのスタッフは皆、朝10時に来て夜の7時には帰っちゃうんです。家で家族と夕飯を食べるからと。日本では朝の4時5時まで店屋物を取りながら頑張っていましたが、冷静に考えたらそんな状況でいいものができるはずがないんですよね。

明け方なんて眠いし、耳もおかしくなってるし(笑)。疲れない、健康的な環境でものづくりをするほうが絶対にいい。あれはまさにカルチャーショックでした。

 

ビートルズのレコードをプレーヤーに乗せた瞬間、何かが変わった

音楽に目覚めたきっかけはビートルズです。僕は絵を描くのが好きなのですが、小学5年生の時、同じクラスにすごく絵が上手い友達がいたんですね。で、「一緒にマンガを描こうよ」ということになって彼の家に遊びに行ったら、お兄さんの影響で洋楽のレコードがたくさんあって。

彼が「ビートルズって知ってる? 貸してあげるから持って帰って聴いていいよ」とレコードを貸してくれたんですが、帰宅してプレーヤーに乗せた瞬間、何かが変わった気がしたのです。それまでアニメや特撮ヒーローの主題歌くらいしか知らなかった僕にとって、ビートルズの歌は衝撃的でした。

そこからはもう、テレビで放送された彼らの映画を観て顔と名前を覚え、ラジオで音楽を聴き、『ミュージック・ライフ』という音楽雑誌を読みあさりと大騒ぎ。小6になる頃には、ほとんど引きこもりのオタク状態でどっぷり洋楽に浸っていました。ビートルズのメンバーの中では、ジョージ・ハリスンが好きでしたね。

自分でも演奏をしてみたいと思い、ギターを持ったのが中1の時。中2で文化祭用のバンドを組み、中3の時の文化祭で、初めて人前でビートルズの曲を演奏するバンドをやりました。教室ではよく、休み時間に歌ったりしていたんですけどね。文化祭で大勢の前で歌って拍手を貰えたのは、ものすごく気持ち良かったです。(笑)

 

「杉山君は音楽に行ったほうがいいよ」

ギターは親が買ってくれました。他に何を欲しがるでもない子だったので、ギターくらいなら買ってあげようという感じで。我が家は父親が警察官で、母親は三味線と歌と踊りのお師匠さんという家庭。朝から晩まで、母のお弟子さんの練習する音色が響いているような家でした。勉強勉強と口うるさいタイプの親ではなく、わりと自由にさせてくれる環境だったと思います。

 

美大を受けようと、YMCAでデッサンの勉強をしていた高3の夏。泊まりがけのスケッチ大会で、清里に行ったことがありました。宿にはギターがあり、夜みんなでお茶を飲みつつ話している時に、僕がそのギターを弾きながら歌ったりしていたのです。

すると帰りの電車で隣に座ったコーチが、「杉山君は音楽に行ったほうがいいよ」と話しかけてきて。そのコーチとはその日が初対面。僕自身、音楽をやりたいと思いつつ、非現実的だよなと自分の気持ちにフタをしてきたので、その言葉に背中を押されたような気がしました。

コーチにフタを開けてもらったことで覚悟が決まり、当時通っていたライブハウスの店長に「ここで働かせてください」と直談判。それを機に、本格的に音楽の道を目指すことになりました。両親は「やりたいことをやりなさい。自活して頑張ってみなさい」という感じで、特に反対というのはなかったです。

 

1983年、「杉山清貴&オメガトライブ」としてデビュー

ライブハウスで出会った先輩たちに刺激され、自分でも曲を書いたりしているうちに仲間が増えて、そこでできたのが「きゅうてぃぱんちょす」というバンドです。

僕らが練習していたのがヤマハのスタジオだった縁で、ディレクターさんに「エントリーしてみない?」と言われ「ヤマハ ポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)」にエントリーしたのが1979年。その年は本選会まで進み、翌80年の春には作詞賞で入賞、秋の大会でも本選会まで行きました。なのでポプコンには計3期出たことになります。

その時「この曲でデビューしないか?」と言われたのですが、デビュー曲って一生付きまとうものじゃないですか。生意気にも「これがデビュー曲になるのは嫌だなあ」と思ってしまったんですよね(笑)。その楽曲はあくまでもパーソナルなもので、世の中の人に向けて作ったものではなかったので。

バンド名を「杉山清貴&オメガトライブ」に変更し、『SUMMER SUSPICION』という楽曲でデビューしたのは83年のこと。事務所の社長がポプコンを観に来てくれていて、いろいろな人を通じて「やってみないか」と声をかけてくれたのです。僕らはただバンドが楽しくて続けたかっただけなので、正直、音楽に携われるなら何でもいいと思っていました。

 

林哲司さんの楽曲で大ヒット

デビューの条件として提示された内容は、「楽曲はレコード会社が用意する。レコーディングは超一流のミュージシャンにしてもらう。バンドだけど自分たちの演奏がレコードになるわけではない。その代わり、売れればライブツアー等もできるようになるよ」というものでした。

 

迷いつつも「まあ年齢も23~24歳だし、ダメだったらやめればいいや」という思いで承諾したところ、ありがたいことに林哲司さんの素晴らしい楽曲をいただけて。なにしろ僕らが学生時代から聴いていた人ですからね。「うわっ、この曲を歌えるの!?」という驚きがありました。

林さんは僕らの10歳上でしたが、「俺もバンドの一員だぜ~!」とラフなノリで来てくださって、すごくやりやすかったことを覚えています。

おかげさまでデビュー曲を始め、出す曲はどれも大ヒット。でも自分たちで作詞作曲したわけじゃないから、どこか他人事なんです(笑)。レコード店に行っても「あ、並んでる、並んでる!」という感じで、「売れなきゃ!」という必死さがなかったんですね。そういうガツガツしていないところも、爽やかな曲調に合っていて良かったのかもしれません。

 

85年末にバンド解散、ソロ活動をスタート

85年末にバンドを解散し、ソロ活動を始めました。解散の理由は、メンバーそれぞれが自身の将来を考えたことにあります。そもそも僕らは自分たちで曲を作っているわけではなかったので、失礼な話ですが責任感というのものがなかったんですね。

「今後、曲が売れなくなってツアーができなくなったらどうしよう?」と考えた時に、売れなくなったから解散というのはみっともない。ならば一番いい時にやめようよと。

 

やっぱり男として、30歳ってひとつの区切りじゃないですか。30まであと数年という年になって、それぞれが「俺は作曲家になりたい」とか「スタジオミュージシャンになりたい」とか将来を考えた時に、「今のうちから準備をしておかないとまずいんじゃないの?」となったわけです。結局、多数決で解散を決めました。

翌年のツアーも全部決まっていた中で、運営さんに相談も無しに突然解散を決めたので、上は本当に大変だったと思います。

あらためて振り返るととんでもないことですが、結果的にそれで良かった。もしもあのまま続けて売れなくなってから解散したのでは、きっとメンバーの仲もギスギスしていたはず。人気のある時に後腐れなく解散したから、今も変わらずいい関係が続いているのだと思います。

 

ちなみに「オメガトライブ」というのは事務所の社長がつけた名前で、プロジェクト名になります。その後、カルロス・トシキという新ボーカルを迎え、「カルロス・トシキ&オメガトライブ」としてプロジェクトは引き継がれていきました。

 

「やめるやめる詐欺だ」と言われ

現在「杉山清貴&オメガトライブ」ファイナルツアーの真っ最中です。2019年に「ラストツアー」をやっているので、「やめるやめる詐欺だ」と言われていますけど(笑)。今回ドラムの廣石恵一が体調不良で不参加ですが、懐かしいメンバーが揃いました。

ツアーは3月の東京から始まり、9月の横浜まで続く予定です。来て下さるファンの方も、親子二代は当たり前、なかには三代なんて方もいます。

また最近では、日本のシティポップが海外でも人気のようで、カリフォルニアに住んでいる娘が「ダディの曲、こっちの友達も聴いてるよ!」なんて言ってます。そういう話を聞くと、やっぱり林哲司さんや織田哲郎さんはすごいなあと思いますね。世界に通用する音楽のスキルを持っていらしたんだなと。

そんな僕は今も、一晩中音楽を聴いています。何でも聴きますが、コロナ禍で時間がありすぎたので、よもや一生聴くことはないだろうと思っていたヒップホップを聴いてみたら好きになっちゃって。ラップも、昔は「日本語のラップなんて」と思っていましたが、今は「めっちゃいいじゃん!」と(笑)。新しい扉が開きました。

 

以前はハワイに住んでいましたが、そちらは2006年に引き払って、今は鎌倉暮らしです。毎日楽しいですよ。マンガは老眼であまり読まなくなりましたが、アニメはいろいろ観ています。最近だと『葬送のフリーレン』とか。シーズンものが多いので、常に5~6本並行して観ていますね。

夜型で、仕事の予定がない時は朝の4時5時まで起きてるなんて普通。しかも今はサブスクで、映画でもアニメでも何でも観られるじゃないですか。寝ていられないんですよ(笑)。こんなものが学生時代にあったら大変だったと思います。

――と、そんな感じで昔の仲間が集まって、昔と同じようなことをやっているので、それを楽しみにライブに来ていただければと思います。40年前、俺たちはこんなことをやっていたんだよねというのを、皆さんと共有したいです。

 

(婦人公論のホームページより)