烏賊です。
今日から月曜日です。
気持ち切り替えて頑張っていこうみたいな日ですね。
しかし朝目が覚めると10時を過ぎていました。
自粛期間、もとい隠遁生活は着々と僕の生活リズムを蝕んでいます。
とはいえこのままいると社会生活に復帰できないかもしれないという恐怖もある訳です。
今日は頑張って、起きてすぐに作業をはじめました。
最近は解析することはほとんどなくて、論文を読んで情報収拾をしています。
基本的に英語で書いてあるので、時折音読を混ぜてついでに発音の練習をするのが僕の論文読みスタイルです。
家でしかできませんね。これに関しては自粛生活悪くないなあと思います。
少し前は家に帰ってきてから夜やることも多かったので、随分余裕のある生活だと実感します。
ちゃんと論文を読んだりして研究をするようになってから、2年弱くらいでしょうか。
分野の知識が全くなかった当時に比べれば、少しは知っていることも増えたかなと思います。
当時は論文に書いてあることとかチンプンカンプンで、結構苦痛でした。
英語が理解できないということではないのです。
同じことが日本語やアラビア語で書いてあっても読めないだろうなというような感じでした。
背景知識が足りないとどうしてもそうなってしまいます。
論文を読むというのは、ある種のコミュニケーションです。
前提を共有していないと伝わらないというのは、コミュニケーションの基本ですね。
今は論文の著者と共有している前提が当時よりは当然多くなっているわけです。
研究をはじめた頃に比べれば、一つの論文から得られる情報も多くなっているような気がします。
指数関数的に知識が増えていくという感じですかね。
感染症の広がり方と一緒です。
ちなみにこの例えで言うなら、指数関数的に知識が増加する僕の段階はまだまだ初期と言う事になります。
気を引き締めて頑張らなければと思います。当然といえば当然ですが。
当然という言葉が何度かでてきて思い出したのですが、高校時代の先生に「当然」という言葉を多用する人がいました。
生徒に発破をかけたいとき、その先生はよく「当然」と言いました。
曰く、「君らは今努力して『当然』だ」「受験生として勉強することは『当然』の行いだ」などなど...。
その先生からすれば、自分のストレートな考えを生徒に伝えているだけなのでしょう。
しかし、僕は先生のこういう発言を聞くたびにストレスを感じていました。
それなりに頑張っているという自覚があったのが理由です。周りにもそういう人多かったんじゃないでしょうか。
別に他人に褒められたくて頑張っているわけではありませんが、そういう頑張りを他人が「当然」のものだと決めつけるのはなんとも腑に落ちません。
自分の努力で苦労するのは自分なわけですから。
それに、頑張っている自分を自画自賛するくらいの甘やかしは許されるのではないでしょうか。
明石家さんまがよく「『努力』という言葉は辞書に必要ない。そこにあるのは『行動』だけだ」みたいなこと言っていますけど、そこまでストイックになる必要あるのかなあとか思ってしまいます。
まあ個々人の美学に口をはさむつもりはないですけど。
とにかく他人に向かって過剰に「当然」と言わないようにしたいと思っていますよ、というお話でした。
随分話がそれてしまいました。
論文読みのこと書いてたんですよね。
そう、最近は昔より論文読むのに時間がかかるようになったのです。
一報に丸一日かけたりしています。
昔に比べて、この著者はどうしてこういう順番で文章を組み立てたのだろうかとか、より俯瞰的な読み方を意識するようになりました。
それに、これまで自分が持っていた知識と照らし合わせる作業もより重要になってきます。
時にはこれまで知っていたことと真逆のことが論文に書いてあったりして、どう理解したものか戸惑うことも増えてきました。
そして何より、この論文を読むことで自分の理解がどのようにアップデートされるのかを意識するようになりました。
知識を整理する棚の数が増えれば増えるほど、こういう「内容を咀嚼する作業」が大変になって時間を取られます。
苦しいといえば苦しいですが、成長した証だと思って前向きに捉えていきたいと思います。
多分普段から思考がしっちゃかめっちゃかで整理できていないからスムーズに論文を読めないんですよね。
話題があちこち行ったり来たりするこの文章からもそれがにじみ出ています。
もっとスマートにものを考えられるようになりたいものです。