コーチが初めって沖縄に渡ったのは
本土返還後、間もなくでした。
空港は、当時国内国際線が同じターミナル。
といっても、ものすごく小さな建物でした
が・・・

タクシー(電車がない!)に乗って
走り出したら、なんか変

そうなんです右側通行だったんです

歩道橋が内地にくらべて、かなり高く
運転手さんいわく、米軍車両用に高い
のだそうです。
道端には、普通にハイビスカスの花が
咲いていて、道行く人達もなんか内地
と違う顔立ちで、南の島を感じました


当時は泊まるところといえば、民宿が
一般的な時代で、初めて泊まった民宿は
ほんとうにアットホームなところで
いまでも覚えています。民宿「赤嶺」

その地域がいわゆる歓楽街の片隅で
昔のいわゆる赤線青線の地域だった
ので、夜になると怪しげなお姉さん
達が街角に立っているという不思議
な空間でもありました

当時のコザ(現在の沖縄市)も、米軍
の街で白人街と黒人街が道路一本で
区別され、ここも異様な街でした

沖縄に行くのは、当時、与論島に行く
には、那覇港から船で行くしかなく
前日に飛行機で那覇に入り、翌日の
船で与論に渡るという方法しかなか
ったのです。

そして、それから沖縄と与論通いの
10年が始まったのです。

この10年はコーチの人生の中でも
南の島の海と空のように思い出深い
10年でした。
