~資地計築~ 建築デザイン 木下 稔 -261ページ目

僕の阪神大震災 〜体験して〜

今日、1月17日は阪神淡路大震災があった日です。

早いもの15周年のニュースがながれました。

平成7年

当時僕は大手住宅メーカーに勤めるサラリーマン

17日は火曜日で会社は定休日でした。

この日は昼から卒業した大学のサークル後輩達と会う予定がありました。

僕の卒業した大学は神戸市東灘区にある甲南大学

17日に何もなければ、僕は午後2時頃には東灘区でした。

この日の朝

当時、両親と暮らしていた僕の隣の部屋には、両親と泊まっていた5歳の甥っ子

休日の朝、5時46分

夢の中でミサイルが飛んできました。

同時だったと思います。

「チュドーン!」

僕がミサイルだと勘違いしたのは大げさでも何でもなく

轟音と共に体が空中に浮いたからです。

僕は神戸とは違う大阪市内に住んでいましたが

大阪市内であってもこの威力

神戸ではどんな事が起こっていたかは想像に易いです。

驚いた事に、空中に浮いた反動を利用して、僕はふとんの上に立っていました。

そこから、何の状況も全く把握できないまま

「家が壊れる、壊れる」と思うほど螺旋状に家が揺れ始め

1間半(2.7m)にギッチリ置かれたタンスが揺れると共に僕の方へ前進してきます。

僕は「倒れたら、中身直すのが大変だ!」と命の前に訳の分からないことに終始して

左右に高速移動しながらタンスを押しました。

「いいかげんにしてくれ~死ぬ~!」と思うほど揺れはつづき(わずか1分程だったらしいのですが)

何とかタンスを倒すことなく地震が止まり、やっと隣室の母親に「大丈夫か!」

と、声をかけたのを思い出します。

恐怖に甥っ子と抱き合う母親の横で豪快なイビキで父親が眠っていました。

あきれるより一周回って関心しました。

翌日、ありったけの食料や水を持って原付に乗り神戸に向かいました。

人々は安息を求め、僕が向かう反対の方向へ毛布などを被りながら線路を歩いています。

当時、建築や工事について、何の知識もなく大手住宅メーカに勤務していた僕が

被災地の営業担当とされました。

これは、僕がこの会社を辞めるきっかけとなり、また、皮肉にも僕が本格的に建築に進むきっかけともなりました。

この会社を辞めるまでの間、被災地で被害状況の診断をしたり、家が無くなってしまった人の再建の手助けをしていました。

燃えた家、崩れた家、液状化でシルトだらけになった家。
旦那さんが亡くなって途方に暮れた半壊の家
座屈した家、地面が動き、土地の形ごと全く変わってしまった地域

僕は無力でした。

傾いた西宮にある、後輩家。

主は愛知の実家に避難したこのワンルームを根城に震災後の神戸に半年いました。

僕が会社を辞める決意をした一言

それは当時の営業部長兼取締役が「ええか!震災は特需や!」

この言葉に堪えられず辞職を決意しました。

あれから15年

先日、築80年の家をリフォームしている時

ニシハラ棟梁に「ニシハラさん、内周はいいですけど、外周の基礎はこうやって、ああやって底からアンカー入れてこうやってくださいね。何かあってからだったら取り返しがつかないのでお願いします」

費用がかかることだったんですが、頭を下げてお願いしました。

棟梁に

「あほタレ~!!そんなもん、具合悪いことワシがする訳あるまい!解っとるわ!」

と言われました。

そして

「ミヨシくんな、あんたんとこの社長、こんなん言いよるけどな、間違っとらんのや。よ~ぉ解っとらんとこんなん言わんのや。あんたもな、よう覚えとき」

そうミヨシ部長に言っていました。

僕だけでないこと

あの震災を体験したもの
心あるもの
心ある建築


僕にできること 〜一社一助〜

以前紹介した「中村ブレイス」 の中村社長より、自動車のダイハツの社員新聞の取材を受けたコピーをいただきました。

取材の主旨は、この不景気においても将来に残る会社

その中で「社員」たるものどうあるかを、企業側からでなく社員側から切り込んでいく社員新聞でした。

読んでいても、その主旨は明白でした。

企業という法人格は個人というものの集合体です。

どんなお題目を唱えても、個人の考えに左右されます。

「リーダーが、経営者が」と言われますが各々の社員の力無しでは方針もお題目も成立しません。

どんな会社でも、この事について深刻に悩んでいるはずです。

中村社長の会社が例外という訳ではありません。

しかしながら、性急に結果を求めることなく、忍耐強く「人を育てる」ということをされてきました。

多分ですが、「人を育てる」というおこがましい言葉ではなく

「目の前の人を助ける」

ただその想いで動く人たちを、長い時間かけて

中村社長自身「一緒に育った」のだと思います。

以前、中村社長に伺ったお話より、深く掘り下げて記事は書いてありました。

僕は自分に問いかけます。

果たして、僕に何ができるのか

社会の片隅でわずかながらの企業を営み

日々につぶされそうになりながら

何ができるのか

記事の中に中村社長の言葉がありました「一社一助」

企業が存在する時、「ひとつ何かの助けになる」

企業でなくても人として「一人一助」

これは、最も力がなく、そして苦しいときでも助けられたことが

将来誰かを助ける力になる連鎖

その渦を作るのは、僕でありあなたであり、いつも「一人」の誰か

「一社一助=一者一助」

見返りのない顧客満足が基本といわれる商売は、イコール人の道でした。

僕にできること

僕にできる「イッシャイチジョ」


劇的!ビフォーアフター 〜これは大変〜

大阪市で工事中のN様邸リフォーム工事


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次から次へと傷んだ箇所が出てきます。

もうキリが無い程出てきます。

しかも、ニシハラ棟梁の話では

「昔はなぁ~、片目つむって『右!左!ヨシ!』なんて言って、1cm、2cmぐらいズレてても、それで建てとったんや」

と言って見ると、2階の梁が水平ではありません。


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柱のタチ(垂直)は狂っていないので、デコボコがある地盤に対し、そのまま建てて行ったようです。

なので
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柱と梁の接合部が傾いたスキマがあいています。

「これはこれでええんやぁ~!昔はこんなんじゃったぁ。1cm2cm?そんなもん『一銭二銭(1センチ2センチ)はカカアの小遣い』
ちゅうて気にせんかったもんじゃ~!」

大工を60年以上もやっていると色々知っているもんです。

「大丈夫や!こんなん、どないかする方法あるんや、まぁ見とれやぁ~」

と、自身満々です。

天井は
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屋根梁を見せて行こうと思います。

お風呂の上の軒裏にこんなものが
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何のお札でしょうか?
裏は
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洗うと昔の住所が出てきました。

すでに何処かわかりませんが。

僕にできること

古民家はナリと感覚でやること