僕の阪神大震災 〜体験して〜
今日、1月17日は阪神淡路大震災があった日です。
早いもの15周年のニュースがながれました。
平成7年
当時僕は大手住宅メーカーに勤めるサラリーマン
17日は火曜日で会社は定休日でした。
この日は昼から卒業した大学のサークル後輩達と会う予定がありました。
僕の卒業した大学は神戸市東灘区にある甲南大学
17日に何もなければ、僕は午後2時頃には東灘区でした。
この日の朝
当時、両親と暮らしていた僕の隣の部屋には、両親と泊まっていた5歳の甥っ子
休日の朝、5時46分
夢の中でミサイルが飛んできました。
同時だったと思います。
「チュドーン!」
僕がミサイルだと勘違いしたのは大げさでも何でもなく
轟音と共に体が空中に浮いたからです。
僕は神戸とは違う大阪市内に住んでいましたが
大阪市内であってもこの威力
神戸ではどんな事が起こっていたかは想像に易いです。
驚いた事に、空中に浮いた反動を利用して、僕はふとんの上に立っていました。
そこから、何の状況も全く把握できないまま
「家が壊れる、壊れる」と思うほど螺旋状に家が揺れ始め
1間半(2.7m)にギッチリ置かれたタンスが揺れると共に僕の方へ前進してきます。
僕は「倒れたら、中身直すのが大変だ!」と命の前に訳の分からないことに終始して
左右に高速移動しながらタンスを押しました。
「いいかげんにしてくれ~死ぬ~!」と思うほど揺れはつづき(わずか1分程だったらしいのですが)
何とかタンスを倒すことなく地震が止まり、やっと隣室の母親に「大丈夫か!」
と、声をかけたのを思い出します。
恐怖に甥っ子と抱き合う母親の横で豪快なイビキで父親が眠っていました。
あきれるより一周回って関心しました。
翌日、ありったけの食料や水を持って原付に乗り神戸に向かいました。
人々は安息を求め、僕が向かう反対の方向へ毛布などを被りながら線路を歩いています。
当時、建築や工事について、何の知識もなく大手住宅メーカに勤務していた僕が
被災地の営業担当とされました。
これは、僕がこの会社を辞めるきっかけとなり、また、皮肉にも僕が本格的に建築に進むきっかけともなりました。
この会社を辞めるまでの間、被災地で被害状況の診断をしたり、家が無くなってしまった人の再建の手助けをしていました。
燃えた家、崩れた家、液状化でシルトだらけになった家。
旦那さんが亡くなって途方に暮れた半壊の家
座屈した家、地面が動き、土地の形ごと全く変わってしまった地域
僕は無力でした。
傾いた西宮にある、後輩家。
主は愛知の実家に避難したこのワンルームを根城に震災後の神戸に半年いました。
僕が会社を辞める決意をした一言
それは当時の営業部長兼取締役が「ええか!震災は特需や!」
この言葉に堪えられず辞職を決意しました。
あれから15年
先日、築80年の家をリフォームしている時
ニシハラ棟梁に「ニシハラさん、内周はいいですけど、外周の基礎はこうやって、ああやって底からアンカー入れてこうやってくださいね。何かあってからだったら取り返しがつかないのでお願いします」
費用がかかることだったんですが、頭を下げてお願いしました。
棟梁に
「あほタレ~!!そんなもん、具合悪いことワシがする訳あるまい!解っとるわ!」
と言われました。
そして
「ミヨシくんな、あんたんとこの社長、こんなん言いよるけどな、間違っとらんのや。よ~ぉ解っとらんとこんなん言わんのや。あんたもな、よう覚えとき」
そうミヨシ部長に言っていました。
僕だけでないこと
あの震災を体験したもの
心あるもの
心ある建築
早いもの15周年のニュースがながれました。
平成7年
当時僕は大手住宅メーカーに勤めるサラリーマン
17日は火曜日で会社は定休日でした。
この日は昼から卒業した大学のサークル後輩達と会う予定がありました。
僕の卒業した大学は神戸市東灘区にある甲南大学
17日に何もなければ、僕は午後2時頃には東灘区でした。
この日の朝
当時、両親と暮らしていた僕の隣の部屋には、両親と泊まっていた5歳の甥っ子
休日の朝、5時46分
夢の中でミサイルが飛んできました。
同時だったと思います。
「チュドーン!」
僕がミサイルだと勘違いしたのは大げさでも何でもなく
轟音と共に体が空中に浮いたからです。
僕は神戸とは違う大阪市内に住んでいましたが
大阪市内であってもこの威力
神戸ではどんな事が起こっていたかは想像に易いです。
驚いた事に、空中に浮いた反動を利用して、僕はふとんの上に立っていました。
そこから、何の状況も全く把握できないまま
「家が壊れる、壊れる」と思うほど螺旋状に家が揺れ始め
1間半(2.7m)にギッチリ置かれたタンスが揺れると共に僕の方へ前進してきます。
僕は「倒れたら、中身直すのが大変だ!」と命の前に訳の分からないことに終始して
左右に高速移動しながらタンスを押しました。
「いいかげんにしてくれ~死ぬ~!」と思うほど揺れはつづき(わずか1分程だったらしいのですが)
何とかタンスを倒すことなく地震が止まり、やっと隣室の母親に「大丈夫か!」
と、声をかけたのを思い出します。
恐怖に甥っ子と抱き合う母親の横で豪快なイビキで父親が眠っていました。
あきれるより一周回って関心しました。
翌日、ありったけの食料や水を持って原付に乗り神戸に向かいました。
人々は安息を求め、僕が向かう反対の方向へ毛布などを被りながら線路を歩いています。
当時、建築や工事について、何の知識もなく大手住宅メーカに勤務していた僕が
被災地の営業担当とされました。
これは、僕がこの会社を辞めるきっかけとなり、また、皮肉にも僕が本格的に建築に進むきっかけともなりました。
この会社を辞めるまでの間、被災地で被害状況の診断をしたり、家が無くなってしまった人の再建の手助けをしていました。
燃えた家、崩れた家、液状化でシルトだらけになった家。
旦那さんが亡くなって途方に暮れた半壊の家
座屈した家、地面が動き、土地の形ごと全く変わってしまった地域
僕は無力でした。
傾いた西宮にある、後輩家。
主は愛知の実家に避難したこのワンルームを根城に震災後の神戸に半年いました。
僕が会社を辞める決意をした一言
それは当時の営業部長兼取締役が「ええか!震災は特需や!」
この言葉に堪えられず辞職を決意しました。
あれから15年
先日、築80年の家をリフォームしている時
ニシハラ棟梁に「ニシハラさん、内周はいいですけど、外周の基礎はこうやって、ああやって底からアンカー入れてこうやってくださいね。何かあってからだったら取り返しがつかないのでお願いします」
費用がかかることだったんですが、頭を下げてお願いしました。
棟梁に
「あほタレ~!!そんなもん、具合悪いことワシがする訳あるまい!解っとるわ!」
と言われました。
そして
「ミヨシくんな、あんたんとこの社長、こんなん言いよるけどな、間違っとらんのや。よ~ぉ解っとらんとこんなん言わんのや。あんたもな、よう覚えとき」
そうミヨシ部長に言っていました。
僕だけでないこと
あの震災を体験したもの
心あるもの
心ある建築