田原市の旧黒羽町の須賀川、東の山を越えると茨城県大子町の佐貫地区である。
この城は2023年末に見つかり、2024年2月に確認した。


↑ 西から見た城址、左のピークが本城、右のピークが出城

 

この城は佐竹氏の勢力が拡大した時、那須領を狙うため整備したものと思われる。
佐竹氏は古くからの佐竹領であり、多くの城館が密集する佐貫地区から山を越え、まず、ここに進出し、その橋頭保としてこの城を築き、須賀川を制圧し、須賀川要害を築き、大山田、そして黒羽方面に進出して行ったのであろう。

 


本館は押川の谷を西に見る東の標高327m、押川からの比高約80mの山にあるが、館から東に続く尾根には尾根上に歩きやすい道がついているのである。
場所によっては土橋状になっている所もあり人の手が入っていることが確認できる。


そして、ピーク上は物見台のように人工的に削平されているのである。
城の後方援護の物見も兼ねているのであろう。

この道が行きつく先が佐竹領である佐貫地区なのである。

↑ 本城に見られる斜面を下り降りる横堀

館は東西に延びる尾根上に約150mにわたり構築される。東端の堀切は深さ約4m、幅約10m。
その西側が主郭部であるが、幅10~15mの曲輪が西に約60m続き、本郭に相当する場所に出る。
西端部に、段々に重なった曲輪が6段ほど展開し、その南側に曲輪と竪堀状に傾斜した横堀がある。
山上はそれほどの藪ではないのだが、麓付近は斜面は急で激藪である。
なお、館からは北と西はよく見えるが、南側は山があり、押川の下流である南方面がよく見えない。
このため、南側の標高330mの山に出城が存在する。


ではHP 須賀川横山館 にて