「竜ヶ井城」よくある名前である。もちろん「要害」が訛ったものである。

「ゆうがい」「ゆうかえ」「竜会」「龍貝」・・全て同じである。


この城は佐竹氏重臣、真壁氏の真壁城の南西約1.5㎞、筑波山系の湯袋峠付近から北西に派生する尾根末端付近にある。
城郭としてはどうってことない物件である。

城の東側はちゃんと造られているのであるが、西側がダラダラ、途中から自然地形になってしまうのである。

このような感じの城はだいたいは陣城である。


城としては取り立てて注目するようなものではない。

注目すべきはこの城というより、湯袋峠方面に延びている尾根にある遺構である。
尾根に沿って、堀は曲がりくねりながら約1㎞続く。

深さも深い場所では5mほどある。尾根を130mも登って行く。

しかし、突然終わる。未完成品のようである。


この掘の存在は地元では知られていたが、藪に閉ざされており世間にはほとんど知られていなかった。
2018年、地元に保存会が立ち上がり、整備が行われ、この壮大な掘の存在が知られるようになった。


2023年12月、Sさんの案内でここを訪れた。
見た感じ、この堀は物資輸送や人の往来と防御施設を兼ねたような堀底道という感じである。
城とこの横堀の位置付けは何だろう?

「真壁町の城館」では関ケ原直前、下館城の徳川軍に対峙した佐竹方の真壁城の後詰めの城としている。
後詰めの城なら陣城程度で十分である。


真壁城を見下ろす位置からも逆にここを取られても困るので確保しておく必要があるし、後詰め行動も起こせる。
背後の掘状の道は防御と輸送を兼ねたものであろう。
この横堀の工事量、膨大である。余程の財力がある者でないとできない工事である。

それが佐竹氏なら十分可能であろう。


おそらく、正規の輸送路は湯袋峠から谷筋を下る道であろう。ただし、谷筋の道は自然災害に弱く、襲撃にも弱い。
そこでバイパスとして山上を通る道も整備していたのであろう。横堀状の道が途中で終わっているのは、整備中に関ケ原の戦いの決着がついてしまったからだろうか。関ケ原の前夜を想定させる遺構としては谷貝峰城も挙げられる。
意外な場所に関ケ原の戦いを推測させる遺構が隠れているようである。

 

それでは、近隣の長岡堀の内、椎尾城等も一緒に

HP 「竜ヶ井城、長岡堀の内、道夢様用かい掘、椎尾城、亀熊城にて