yuki saitoさんのブログ
「可能化の可能化の可能化」http://samurai-ot-blog.blogspot.jp/2012/10/blog-post_27.html?spref=fb
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作業とは,動作や活動と異なること.
作業とはクライエントの一度きりの文脈の中にあること.
作業を遂行するのはクライエント自身であること.
作業の意味や価値はクライエントの中にあること.
変化や効果はクライエントが認識するものであること.
それが実感できれば作業療法という作業の形態は鮮明になる.
真のニーズに寄り添えるようになる.
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可動域の制限や随意性の低下にずっと悩んでいた君が,
嚥下障害があり,発話が不明瞭なクライエントが
友人とお茶飲みを継続するためにはどうすれば良いか?
それを悩みはじめたとき.僕はとっても嬉しかった.
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このブログを読んで衝撃が走った。
自分自身がサービスを提供し、その結果のみに囚われ、その評価の中に利用者の存在が無かったのではないか?
例え効果があったとしても、利用者は本当にその結果に満足していたのか?と反省させられた。
「人生を遂行するのはあくまで利用者自身であること」
「ケアマネジメントの意味や価値は利用者の中にあること」
「利用者は施設で怪我や病気なく過ごすことを目的として生きているわけではない。施設サービスは目的ではなく、利用者の望む生活を支える手段であること」
自分自身のフレームを一度たたき壊し、再編成せねば。
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「クライエントにとって大事なことを、最もよく知っているのはクライエントだ」
byカール・ロジャーズ
【援助的関係の理論】
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ここで、まず「これではいけないと気づいたこと」から説明する必要があろう。 だんだん、私自身の胸にしみてきた切実な事実があるのだが、それは知的な方法や訓練的な方法によっては、こうした心理的 に問題を持った人の援助はできないということであった。 知識(knowledge)とか訓練(training)、つまり何かいわゆる教えられたものを相手が受け入れる、ということに頼った 方法は、全て何の役にも立たないのである。 こういう方法は、なかなか心を引くし、直接的でもあるので、私も過去においては、随分そういう方法をやってみたのである。その人のことをその人自身に説明してやる。その人の進むべき段階を指し示してやる。もっと満足すべき人生の生き方について、知識の面でその人を訓練する。どれも、できないことではない。 しかし、私の経験からすると、こういうやり方は実り少なく、見当違いと言うべきだ。せいぜい一時的変化がみられるだけ。 それもまもなく消え去って、結局、そうした不適応をいよいよその人に確信させるに終わるのである。
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ロジャーズがここで強調しているのは、個人の適応問題とか、人間関係の問題において、教えたり、指示したり、忠告したり することが、いかに効果のないものであるか、ということなのです。適応問題で悩み、人間関係の破れに苦しんでいる人に 「教える」「知識を与える」という方法ではダメだ、といっているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さて、私の中にある変化が起こったのだが、それを簡単に述べてみると、次のようになるであろう。 現在の仕事(カウンセリングと精神治療)を始めた最初の頃、私が努力したことは、「自分はどのようにしたら、この人を うまく処置してやれるだろうか、癒してやれるだろうか、また、変えてやれるだろうか」ということであった。
現在の私の課題を、これと同じ形で言ってみると、こんなふうになるであろう。
「この人が”自分自身の人間的成長のために活用出来るような人間関係”を提供するには、私はどうしたらいいのだろうか」
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