マザーテレサが50年近く体験した、『「神(イエス)」の不在』について書いてみたいと思います。
マザー・テレサ(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5
によると、
1948年、教皇・ピウス12世からの修道院外居住の特別許可を得て、カルカッタのスラム街で、街頭での無料授業を行うことを出発として、マザーテレサが設立した「神の愛の宣教者会」は、彼女が他界するまでに、メンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行なわれるようになったということです。
活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などであるということです。
マザーテレサの活動は、世界的に拡大し彼女の名声も世界的になり、1979年にノーベル平和賞を授与されました。
霊性進化の道-スピリチュアリズム
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-50/spnl-50-1.htm
に、
私たちが尊敬してやまないマザーテレサが、1997年に他界するまで、「神(イエス)の不在」に関する悩みを持ち続け苦悩していたということが書かれています。
マザーが懺悔聴聞司祭(ざんげちょうもんしさい)たちに送った書簡(手紙)には、生前は世間に一切知られることのなかったマザーの内面が赤裸々に綴(つづ)られていました。
それらをまとめられた“Come Be My Light”という本が世界中に大きな衝撃と反響を巻き起こすことになったということです。
◆1953年(マザー43歳)……ペリエール大司教への告白
「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事(*インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」
◆1957年(マザー47歳)……ペリエール大司教への告白
[2通の手紙から]
「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。神への深い思慕の情――神との触れ合いを渇望するその思いが、繰り返し私に苦しみを与えるのです。私は神から求められてはいません。神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もありません。私の魂には何ひとつ魅力あるものがありません。天国は何の意味もありません。それは私には空虚な場所のようにしか感じられません。」
「私のために祈ってください。私がイエスにずっと微笑んでいられるように祈ってください。私は“神がいない”という地獄の苦悩を少し理解しています。しかし、それを表現する言葉が見つかりません。」
◆1959年(マザー49歳)……ピカシー神父への告白
「主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。
私の信仰は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか? 心の底には、虚しさと闇しかありません。主よ、この得体の知れない痛みは、何と苦しいことでしょう。絶えず私の心は痛みます。私には信仰がありません。私の心に次々と湧いてくる考え、私を苦しめる言葉にできない苦悩を口にすることはできません。答えを見い出すことのできない多くの疑問が、私の中に存在しています。私はそれを打ち明けるのが怖いのです。それが神を冒涜(ぼうとく)することであると思うと……。もし神がおられるのなら、どうか私を許してください。すべてがイエスとともに天国で終わるという希望を、信じさせてください。(中略)
愛――その言葉は何の喜びも私にもたらしません。神が私を愛していると教えられてきました。しかし闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりにも大きいため、私の心は何の喜びも感じることができません。私が(奉仕の)仕事を始める以前には、愛も信仰も神への信頼も祈りも犠牲精神も私の中にありました。主の呼びかけに忠実に従う中で、私は何か間違いをしでかしたのでしょうか? 主から与えられた奉仕の仕事に、私は疑いを持ってはいません。その仕事は私個人のものではなく、神ご自身のものであると確信しています。(中略)
彼等(*同じ奉仕に携わるシスターたちや世の人々)は、私の心の中には神への信仰と信頼と愛が充満し、神との深い交わりと神のご意志との結びつきが心を駆り立てているに違いないと思っています。彼らは、私が表面上の明るさという仮面によって、どれほどの虚しさと苦悩を覆い隠しているのかを知りません。(中略)神よ、あなたはあまりにも小さき者に何をしておられるのですか?」
神の御言葉を語り、神の御言葉を実践し、神の愛を証し、世界中の多くの者を感動させ神の元に導いてこられたマザーテレサが、信仰者として決定的な問題を抱えながら人生を送られたということに言葉が出ないような驚きがあります。
しかし、
私には、イエス様が神様に見捨てられたような状態で十字架に架けられたときのイエス様のご心情と重なります。
イエス様も神様にとても愛されたように、マザーテレサも神様(イエス様)に6ヶ月間とても愛いされた神秘体験をされたということです。
イエス様もマザーテレサも、神様に見捨てられたような状況の中、愛された記憶にすがりながら、神様より見捨てられたその期間を(マザーテレサは、必死にもがきながらも)その期間を生き抜きました。イエス様は、神様の御旨を十分に知るゆえに十字架の道をいかれたということですが、
私は、そのマザーテレサの生き様が、神様をそしてイエス様をとてもお慰めされたのではないかと思います。
私たちは、「神様」や「イエス様」、「御父様」の私たちとの関わりがわからなくなってしまった時、簡単に「信仰の挫折」をし、そのような状態で、御旨を歩むことの意義を見失ってしまいます。
マザーテレサは、もがき苦しみながら、解からなくなった「神様とイエス様」に代わって、神の御言葉を語り、神の御言葉を実践し、神の愛を証し、世界中の多くの者を感動させ神の元に導きました。
私は、「神様」が「マザーテレサ」に試練を与えたとは思いません。
「神様」が愛してやまない「娘・マザーテレサ」の直ぐ隣で、抱きしめたい気持ちを押し殺しながら、涙を流しながら、ともに、インド貧民街での奉仕の仕事をされていたと思います。
「マザーテレサ」はまさしく、「神様とイエス様」が「サタン」に誇れる「神様の娘」であったと思います。
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