『岸田森』をめぐる断章 | 星が語る『Star』~Astrology Cafe~

『岸田森』をめぐる断章

不死蝶 岸田森


この、すぐれた『岸田森』の評伝の冒頭には、従姉、岸田衿子の次の詩が掲げられています。



『追憶』


――蝶の水飲み場を見つけたよ

森の声が響いてくる

いとこの中で一ばん小さかった森は

昆虫少年なので 幼いくせに

昆虫学者の口調で教えてくれたのだ

光りを撒きちらしてオオムラサキが飛ぶことを

幻の蝶と云われるヒサマツミドリシジミを この谷で確かに見たことを

目の前にいた少年は 瞬くまに峠の方へ

駆け上がって笑っている

兄にもらった昆虫網を振りかざして

腰に緑色の三角缶をつけて


前ぶれもなく 不意にやって来るのは昔と変らなかったが

目のくりくりした少年は

言葉使いの穏かな青年になり 大人の俳優になっていた

昆虫網と三角缶がなんと幼びて見えたろう

私たちは見物だったから 偽の蝶を見せてもらえばよかったのに

彼は俳優だったから 幻の蝶を採る真似だけしてくれてもよかったのに

森はあれからずっと追いかけていたのだ

自分は擦り傷だらけになり

蝶の羽だけは痛めないように そっと三角紙にしまう


ヤエヤマイチモジが どれほど高い所を飛びたがるか

一直線に水辺に降りてきては またすばやく木々の梢をわたっていくかを

うわごとのように喋り続ける

――だけどさ もしかすると蝶のために

支度にとりかかる 時刻表を見る

乗り物に乗り 無駄に歩きまわる

そんなことのほうが好きなのかもしれないな とも云う

ある明け方のことだ 森が行く先も告げずに出かけてしまったのは

時刻表も調べないで 支度もせずに


――蝶の水飲み場を見つけたよ

幼い森の声が響いている