野中家親族から、下の写真を見せていただいた。
  座っている2人は中国人。向かって右は尹徳炎。左はだれなのか。写真の裏には、「捕虜のシナ人ながらよくなつき……」と書いてある。捕虜になり、野中隊に入ったのだろう。
  サングラスをかけているのは野中。もうひとりは佐藤光廣中尉(第108師団)。昭和14年夏、晋東作戦に、翼城から出発する前にとった写真だ。晋東作戦は潞安【ろあん】周辺の朱徳軍排除が主な目的だった。

 


   写真の裏にこういう説明が書いてある。

  野中は以下のようなエピソードを話している。ただし写真の捕虜のことかどうかはわからない。
捕虜の中に17、8の少年が。どうしたんだってきいたら、弾でやられたと。貫通しているわけです。傷はふさがっている。結局、これ、生きましたよ。ぼくらはすぐに衛生班を呼んで、手当をしてくれっていったら、手当する必要ないってわけですよ。裏表から膏薬、はっとけばいいと。その後、彼はぼくの部隊に入れて、長いこと徳炎の部下に使いました。(その人は上海まで行ったんですか)いや来ない。山西で別れました。あの潞安で。これは逃げなかったです。徳炎とぼくを慕ってね。命の恩人だってわけです」