母は「下の人」という言葉をよく使う。
たとえば以前、私が気に入ってよく見ていた配信者のことを、「この人の配信、面白いよ」と何気なく母に話したことがあった。私が好きなものを母に知って欲しい、楽しさを共有したいという思いがあった。
すると母は、「下の人を見て安心したくて見てるんでしょ?ねえ?」と言った。
意味がわからなかった。
対人関係において「上」「下」という概念を、私は年齢における歳上、歳下や、会社の組織内での形式上の上司、部下関係を表すものでしか考えたことがないし、そんな発想すら思いついたことがなかった。
その配信者は30代後半の男性で、配信を生業にしていて、散歩をしたり、トークをしたり、旅に出たり、自由に生きている感じが好きで私はよく見ていた。
その配信者は明らかに年上なので、母が年齢の上下を理由に「下の人」と言ったわけではないことはわかる。
母がこの配信者のどこを「下」だと感じたのかはわからない。
母は私の話に必ずと言っていいほど否定から入る。
とにかく、私の好きなものを否定する。
今回も、私が好意を持って見ていた配信者を否定するために、「下の人」という大変失礼な言葉を使い、さらに私に対して「人を見下すことで自尊心を保ちたい人」というレッテルを貼って、ねぇ?ねえ!?と強い口調でしつこく同意するよう圧をかけ、認めさせようとしてきたのだろう。
その言い方にも、態度にも、考え方にも、私はすごく嫌な気持ちになった。
人の好きなものを聞いたときに、「下の人を見て安心したいんでしょ」なんて言葉が出てくることに、私はただ戸惑った。
母はその言葉を、私自身に向けても使ったことがある。
昔、子どもの頃の家庭環境について、「あのとき、ああいうのが辛かった」と私が話したとき、母は「あんたみたいな下の人にあれこれ言われたくない💢!」と怒鳴った。
私はその時「下の人って、どういう意味?」と聞いた。ただ、その意味が知りたかっただけだった。
すると母は、「私は過去のことをいつまでも言わない💢!」と返してきた。
つまり「過去の辛かったことを話す」ことが、母にとっては私を“下の人”と認定する根拠だったようだ。
母は、人に対して――年齢や会社での役職といった客観的な上下ではなく、その人自身の存在を――「上」「下」と勝手にジャッジしているのだろうか。
そして、いつも「この人は上、この人は下」と心の中で分類しているのだろうか。
もしそうだとしたら、母自身は、その中で自分をどの位置に置いているのか――それも、少し気になるところではある。
首藤はるか