日に日に、目に見えて心身が擦り減っていった。
身体は少しずつ衰弱し、気力は底から抜け落ちるように失われていった。
3月26日。
数週間前から、「もう危ない、もう無理だ」という感覚はあった。
けれどその日、ついに限界が来た。
動けなくなった。
比喩ではない。
本当に、心と身体が動かなかった。
シャワーを浴びる気力も残っていなかった。
私は本気で思った。
「私は、この部屋で、このまま最期を迎えるのかもしれない」
何か行動しようとすると、フラッシュバックと自己嫌悪が脳内を埋め尽くした。
過去のおぞましい記憶が一気に押し寄せ、思考も身体も支配される。
完全に、底なし沼にはまり込んでいた。
その日は、3月にしては異様な寒さだった。
何枚服を重ねても寒い。
身体の芯から冷え切っていて、凍えそうだった。
私の家には洗濯機がない。
洗濯をするには、コインランドリーまで行かなければならない。
けれど、その頃にはもう何週間も心身が限界を超えていた。
洗濯物は積み重なり、カゴから溢れ、入りきらないものは風呂の浴槽に押し込んでいた。
寒くて凍えそうだった私は、洗濯物を詰め込んだ浴槽に湯を張り、その中で身体を温めた。
「普通」なら、そんなことはしないだろう。
けれど、その時の私は、もう「普通」の生活を維持できる状態ではなかった。
寒さを凌ぐ。
食事を摂る。
排泄をする。
本来なら、人が生きるうえで最低限必要なことすら、まともにできなくなっていた。
とにかく寒かった。凍えそうだった。
このままでは、本当に生命が危ない。
そう感じていた。
だから私は、洗濯物を押し込んでいた浴槽に熱い湯を張った。
洗濯前の衣類に囲まれながら、とにかく身体を温めた。
寒さに震えながら、私は父の最期を思い出していた。
父もまた、家族という存在がいながら、孤独に蝕まれていた。
そして最期は、岩手県の父の実家近くの川辺で低体温症で亡くなった。
自然を愛する父を育んでくれたふるさとの山懐に抱かれて、一人で川のほとりで過ごした日は、どんなにかつらく寂しかっただろう。
あの時の私は、父の姿と自分が重なって見えていた。
その日、体調は回復するどころか、時間が経つほど悪化していった。
このままでは、本当に危ないかもしれない
そう感じた私は母に「動けない。助けて」とLINEを送った。
母は私の電話を着信拒否しており、LINEもブロックしていたため、読むことはないことはわかっていた。
だが、もしかしたら、何かの偶然で読んでもらえるかもしれない。
けれど当然、そのメッセージを母が読むことはなかった。
その日の夜、私は限界を超え、入院することになった。
あのまま一人で部屋にいたら、どうなっていたのだろう。
母は、私が入院したことを、翌々日に病院から連絡を受けて初めて知ったそうだ。
私はその後、1か月入院した。
そして退院の日。
当然、迎えに来る家族はいない。
私は一人で病院を出て、一人で帰宅した。
部屋に戻って最初に目に入ったのは、あの日の浴槽だった。
私を温めてくれた湯。
1か月前、寒さで凍えながら、どうにか身体を温めようとして、必死で張った湯。
その湯は、腐っていた。
浴槽の中で、時間だけが過ぎていた。
まるで、あの時の私自身が、置き去りにされたまま残っているようだった。
首藤はるか