小学校低学年の頃、私たち家族の生活は、ある日突然大きく揺らぎ始めた。
父が、それまで勤めていた会社を辞め、「カントリー家具屋を始める」と言い出したのだ。
母は専業主婦だったので、両親が同時に無職になったことになる。
家具屋は、素人が勢いで始められる商売ではなかった。
仕入れ、流通、在庫管理、取引先との関係、季節による売れ筋の見極め...。
家具は重く、場所を取る。そして、売れなければ処分にもコストがかかる。
当時まだ小学生だった私でさえ、「大丈夫なのかな...」と不安を感じたのを覚えている。
そして、その不安はやはり的中した。
数年のうちに店は立ち行かなくなり、家計は借金まみれになった。
それでも、債務整理や福祉に頼るという選択肢は両親にはなかったらしい。
両親が出した結論は、「家族で父方の祖父の家に夜逃げする」ことだった。
岩手に夜逃げする数ヶ月前から、家には大人の来客が増えていた。リビングで親と話す声がよく聞こえた。私は隣の部屋にいたけれど、会話の内容はある程度わかった。
来る人は毎回違っていたが、一組は、名前を聞いたことのあるカード会社の人だった。もう一人は、近所の土地を広く所有している地主さんだった。
何か良くないことが起きている。子どもながらに、家の中に漂う空気からそれを感じていた。
今になって振り返ると、両親がさまざまな支払いを滞納していたのだと思う。結果的に、母方の祖父名義だった持ち家は差し押さえられ、競売にかけられる。地主さんは、その際の借地権に関する話をしに来ていたのだろう。
岩手県一関市にある父方の祖父の家へ逃げる。
その決定を伝えられたのは、ある日のいつもの食卓。父が口を開き「じい(父方の祖父)の家にみんなで行きます」という一言だった。
今でも「なぜその道を選んだのか」はわからない。母に尋ねても「覚えてない💢」「あたしと父さんが決めたことだから💢」「いつまでも昔のこと言わないで💢」と言って口を閉ざす。
まるで他人事のように。
借金のことも、引っ越しの事情も、福祉に頼らなかった理由も、私は何一つ教えられていない。
中学2年だった私は、両親•兄②と一緒に岩手県に向かった。
兄①だけは、東京の祖父母宅に預けられた。高校卒業が近かったため、「卒業まで預けておいて、そのあとはどうにか出て行かせればいい」という両親の判断だったのだろう。
でも母方の祖父は、優しい人ではなかった。
高3の兄①に対して、日常的に精神的な圧をかけるような言葉を浴びせるようになった。
兄が大切にしていた音楽活動を否定し、暴言を吐いた。
それが兄をどれほど傷つけたかは、私にも痛いほどわかる。
兄は祖父母の家を出て一人暮らしを始めたと聞いた。
まだ高校生だった兄が、家族とも、頼る大人とも離れて暮らすことの重さを想像すると、胸が詰まる。
一方で、岩手県に逃げた私たちの生活も、決して落ち着いたものではなかった。
兄②は毎晩、深夜にずっと部屋で爆音で音楽を流していた。
誰にもぶつけられない怒りと不安が、音楽を大音量で流すという行動になったのかもしれない。
私はもう何も言えなかった。
どうせ何をしても無駄だ。
そう思うようになっていった。
首藤はるか