その日をきっかけに、私は初めて病院を受診することになった。
母が最初に私を連れて行ったのは、児童精神科だった。本来であれば、まず小児科に行き身体的な原因を疑うのが適切だったはずだ。しかし、当時は情報も医療資源も限られていた岩手県の田舎町。仕方なかったのだと思う。単に、運が悪かった。
最初に受診した児童精神科には、検査機器はなく、医師の問診だけで「自律神経失調症」と診断された。処方されたのは、ありふれた抗不安薬。診察はほんの数分で終わった。
もちろん、それで症状がよくなることはなかった。それどころか、発作の頻度は明らかに増していき、私は日に日にボロボロになっていった。突然意識をなくす発作が、少なくとも1日に8回はあったと思う。そしてたいてい、尿失禁を伴った。私は毎日オムツを履いて学校に通っていた。
それでも私は、学校を休まなかった。というより、「休む」という選択肢がそもそも私にはなかった。
今の私が当時の私に声をかけられるなら、こう言ってあげたい。「はるかの体が一番大事だから、よくなるまで、学校は休もう。治療に専念しよう。大丈夫だよ」と。
でも、当時の私のまわりには、そう言ってくれる大人は誰一人いなかった。
日に日に悪化する私の様子を心配して、ある日、また別の同級生のお母さんが母に声をかけてくださった。
「神経系の病気かもしれないから、病院を変えた方がいいと思う」と。
その一言で、ようやく私は脳神経外科を受診することになった。
そこで初めて、「てんかんの可能性がある」と告げられた。
けれど、それで終わりではなかった。
ひとくちに「てんかん」と言っても、発作のタイプはさまざまで、「全般発作」と「焦点発作」では効果的な薬がまったく異なる。
私の場合は「焦点起始意識減損発作」だったが、最初は全般性発作に用いられる薬を処方されてしまい、それによってかえって発作が悪化してしまった。
再び病院を変え、今度はてんかんに詳しい専門の先生がいる宮城県仙台市の病院へ。
ようやく、「側頭葉てんかん(海馬硬化を伴う内側側頭葉てんかん)」という診断がつき、私に合った薬が処方された。
そしてその薬が著効し
1日に何度も起きていた発作が、ピタリと止まった。
あの日まで、ずっと混乱し続けていた世界が、急に静かに、穏やかに、凪いだ。
初めて宮城県仙台市のてんかん専門医の先生(以下、N先生)に診察していただいた日、私は中学生で、診察室には母が同伴し、私の隣に座っていた。
正直なところ、それがとても嫌だった。
母がそばにいると、私はどうしても萎縮してしまい、本当に困っていることをうまく話せなくなってしまう。先生に伝えたい大切なことが、言葉にならなくなるからだ。
けれどそのとき、N先生は、これまで聞いたことがないほど強く、真剣な口調で、母の目を真っ直ぐ見てこう言った。
「はるかさんは、お母さんが思っているよりも、何倍も何倍も大変な思いをしているんですよ。」
N先生は、これまでに多くの患者を診てきた経験から、私の頻繁な発作、学校のこと、そして母の無関心さまでも見抜いていたのだと思う。
N先生は、私が口にできないことを、まるで代わりに伝えるように、母に対してはっきりと伝えてくれた――私の心の奥にある叫びを代弁してくれるように
最初に受診した病院では誤った診断を受けてしまったが、「後医は名医」という言葉もあるように、限られた資源や情報の中で懸命に診察してくれた先生には、今も感謝している。
首藤はるか