私が子どもの頃、辛かったことのひとつは「兄(二番目の兄。以下、兄②)からの暴力」だった。
毎日のように、私は兄のサンドバッグにされた。
きっかけは、本当に些細な意見の違いだった。
たとえば、普通に一緒にテレビを見ていて、兄が「これって◯◯だよね」と言ったとき、私が「私は◯◯だと思うよ」と別の感想を口にする。
それだけで兄は突然激昂し、すぐ近くにある家具などを手に取り、私を攻撃し始めた。
私が少しでも兄と違う意見を言ったり、兄の機嫌を損ねたりすると、すぐに暴力に発展した。
兄は高校時代、ラグビー部のキャプテンをしていた。身体能力は高く、体格も立派大きい。チームもそこそこ強かったらしい。
でも、もしかすると彼の運動能力の礎には、私があるんじゃないかと思うのだ。
何しろ子供の頃、私はほぼ毎日のように、彼の拳と膝と硬い家具を使った打撃を全身で受け止めていたのだから。
私という”サンドバッグ兼妹は、きっと良い筋トレになったことだろう。反射神経、瞬発力、攻撃を数十分も続けるスタミナ、執念、そして手加減のなさ。
特に顔面へのノールックストレートなんて、才能だと思う。ボクシングとか向いてるんじゃない?
だって、ふつう人って、他人の頭部をためらいなく殴るのって、けっこうハードル高いから
兄の暴力が始まるときは、顔でわかる。
また始まる、という絶望感。
自分の感情を殺し、暴力に無意識に備える
血走った目を見開き、激昂して耳を真っ赤にし、私へ重くて固い家具を全力で振り下ろすため、歯を食いしばり歪んだ口元。我を失った恐ろしい表情、そして頭全体にガーンと響く衝撃――。
あの感覚は今でも鮮明に覚えている。
あまりに強い衝撃で、痛みすら超えていた。
暴力が終わった後は、めまいや痛みで立ち上がることもできず、私は床に丸まったまま、放心していた。
親が帰宅しても、相談などできるはずもなかった。
こんな理不尽で辛い経験を、誰にも話さなかったのには理由がある。
それは、兄②が、私がてんかんの薬の種類が増えたとき、リビングでいつもよりかなり眠そうにしている私を見て、
「いつもより眠そう」
と一度だけ声をかけてくれたことだった。
そのたった一言で、私はそれまで散々殴られ続けたことを水に流そうと思った。
過去に暴力を振るった兄②は、変わったんだ。優しい人間になったんだ。
そう信じた。
それ以来、私は兄②のことを、褒めることしかしなかった。
「妹の副作用を心配してくれる、優しくて正義感の強い兄」として、周囲にも伝えてきた。
私が痛み、苦しみ、孤独感、誰にも助けてもらえない恐怖、
暴力がいつ終わるかわからない極限の不安、
命の危機すら感じていた日々。
そのすべてを、私は、兄②の「眠そう」というたった一言で許した。
――あれから年月が過ぎた。
大人になった私は、ようやくあの頃の記憶を言葉にしてみようと思った。
そして、つい最近、母に当時の兄の暴力について打ち明けた。
恐怖に怯え、怯えながら過ごした日々がどんなに辛かったか、聞いてほしかった。
しかし、母の反応はこうだった。
「そんなのこどものよくあるケンカ!あんたは子供も育てたことないくせに💢」
なぜか怒り口調だった。
「よくあること」なら、なぜ怒る?
なぜ私の口を塞ごうとする?
堂々としていればいいはずだろう。
そもそも「ケンカ」と「暴力」は本質的に異なる行為である。
一般に「喧嘩」とは、対等な立場同士による一時的な口論であり、「互いに」怒りや不満をぶつけ合うものである。支配やコントロールの意図は基本的に含まれない。
一方で「暴力」とは、加害者が被害者を支配・制圧する目的で、一方的かつ継続的に行う攻撃(殴打、蹴りなど)である。
体格差のある妹の頭部を、30分以上にわたって硬い家具で殴り続ける行為は「よくあるケンカ」なのだろうか。私は無抵抗で、頭を抱えて横になり、ただ暴力が終わるのを待っていた。これは明らかに一方的な暴力である。
社会的・法的に見ても「子どものケンカ」では済まされない。
これは明確な家庭内暴力であり、未成年であっても暴行罪(刑法第208条)、傷害罪(刑法第204条)、脅迫罪(刑法第222条)などが適用されうる行為である。
暴力は、家庭内という密室、家族間で行わ
れたとしても正当化されるものではない。加害者が子どもであっても、被害者の心身に与える影響は深刻であり、社会全体としてその被害を見過ごしてはならない。
仮に、無抵抗の小学生の妹を、固い家具の角で何度も殴りつけることが「よくあること」だとしても、
それが私が感じた苦痛と、何の関係があるのだろうか。
「よくあること」という言葉で、私の痛みはなかったことにされるのだろうか。
ちなみに、「よくあること」と言った母は、軽い言い合いを想像したのだろう。
しかし、兄の暴力は、そんな生ぬるいものではなかった。
兄は小学校でも、授業中に突然怒って物を投げたりしていた。
音楽の授業中、兄が楽器を投げたことで、なぜか私が音楽教師から「お兄ちゃん楽器投げてたよ?💢」と叱られたことすらあった。
他の子にも他害していたのかもしれない。
少なくとも、私に向けられた暴力は、「よくある子どものけんか」などでは、絶対になかった。
だが、小学生だった私にも、医療機関などで得られる検査の結果のような客観的なデータこそが、将来、自分を守ってくれる唯一のものになるかもしれないと、ぼんやりながら感じていた
首藤はるか
