残り物達の華麗なる最終決戦。 (丼風写真と色々をマイペースに少し書きました。) | はるブログ「私の時間.書き綴り場所」

残り物達の華麗なる最終決戦。 (丼風写真と色々をマイペースに少し書きました。)

タイトル
「残り物達の華麗なる最終決戦。
余りモノと残り物で作った
(丼風写真)」








(自分自身用に書き留め置き。)

・からし菜
・ツナ缶
・卵焼き
・鶏そぼろ
・五穀米(ありがたやー♪)



・(今回の記事内容)


①残っていた材料で御飯を作り、

その時の撮影した写真です。





②色々あった当時の日々の出来事
思い出しながらをマイペースに少し書きました。



今回、
この材料で作ったのは、
懐かしく思い出したコトがあり、

幼き頃の私と弟と一緒に500円を握りしめ
今は亡き母に頼まれた買い物をしたという、
当時の話しを少し書いてみました。

そういう思い出もありまして、
丼風を作り,今回の記事の写真として
UPしました。






"私が幼き頃の当時、

今は亡き母に夕食の材料の買い物を
頼まれて、

当時幼き頃の弟の手をひきながら、
2つ下の弟と一緒に、
500円玉を握りしめて

当時の近所にあった
売店(マチヤグワァー)まで買い物へ行っていました。


当時の我が家の
毎日の食費は、

(1000円分を500円"朝,夕食分に分けての
遣り繰りでした。"



当時の我が家の家計状況は、
豊かとは遠く

そんな家計状況でした。




当時の我が家は、
古びた家賃無しの家でしたので、
その分は省かれての遣り繰りでした。

冬は底冷えもして
夏はトタンの屋根の熱の暑さで暑くて

雨漏りはする家で、



テレビも壊れたまま無くて


広い大きな食事テーブルの存在が

やけに目立っていて、





家族揃っての食事時間は無くて


父と食事をしたりする日もあれば

母と2つ下の弟と食事をしたりする日もあり


当時、


2つ下の弟は、
喘息の持病で入退院と
通院を繰り返してたのですが、



2つ下の弟の看病で、
仕事先から
そのまま母は

弟が入院してた病院へ行き
付き添い、



当時の我が家は、

そういうコトもあり、
2つ下の弟中心の生活でした。


(まだ1990年生まれの妹が誕生する前の
平成の時代に入る前の
数年前の我が家での出来事の話し。
)




家で誰も居ない時は、


隣の近所のオジーやオバーのお宅に招かれて
お邪魔させていただきながら、


おやつに
夕食にと御馳走になったり、



時には、
父の会社の社長さんのお宅に招かれて
足を運び
お邪魔させていただきながら、



おやつと
夕食と
お土産をいただいたり、




猫一匹と暮らしていた
近所のオバーのお宅に招かれて
お邪魔させていただきながら、

おやつと
夕食と
お土産をいただいたり、



父方の祖母の親戚のオバーのお宅に招かれて
お邪魔させていただきながら、

夕食と
そのまま泊まり
そこから小学校へと
登校したりした時もあり、





家族揃っての食事時間とは
縁の無い



"当時の我が家でした。"




それぞれ離れた場所でも、

互いの事を忘れずに思いながら

そういう食事時間のスタイルでした。





庭が広いわりには、

家の方が何故か
狭い我が家で、





炊飯器も無くて
ガスコンロで炊いてました。



近代的な様式とは
程遠い



あの当時の
我が家の日々がありました。


クーラーの存在を初めて知ったのが
小学校2年生の頃で、

当時、
電気屋さんに家族で立ち寄り
クーラーを購入出来て
取り付けも済み


涼みながら睡眠出来たこと、

買い物に出掛ける時も、
2つ下の弟は、


ミニカー付きのお菓子を
駄々をこねて母に頼んで
よく買ってもらっていたので、


私は自然と、

"アレガ欲しい"
"アレヲ買いたい"とは言えませんでした。


当時、
とても味わいたかった

大きなプリンも

可愛いウサギのドールハウスのオモチャも

クラスで流行っていた
ロケット鉛筆の文具も


そんな共働きの両親の姿をみながら
とても言えませんでした。




ある時、

仕事帰りに立ち寄ったから
ついでにと、

大雨の中、

父は走りながら帰宅して、


私が欲しかった
クラスで流行っていた
"ロケット鉛筆を買って帰ってきました。"



母は、
父に

"甘やかさないで。
我慢も覚えさせないと、
それよりも、
弟との過ごす時間の方を
もっと増やして大切にしてと、"



初めて手にとった
ロケット鉛筆を持ち

喜びの気持ちを押さえ躊躇する
当時,小学校1年の頃の私の目の前で、



母は
父に怒鳴り散らかしてました。



私は
父に申し訳ないと思い、


父に謝りました。


父は必要以上の話しは
私に、何も言わずに、


「明日から、
堂々と胸を張って
クラスの友達みんなと、
ロケット鉛筆と学校での勉強楽しんでおいで。
父さんのコトは気にするな。
何も我慢しなくて良いから、
思いっきり学んでおいで。

今度は大きなプリンも買ってくるから、

ウサギのドールハウスのオモチャは、
高くて買えないけれど、

それ以外なら、
父さんは、
何でも必要なモノを買ってくるから、

母さんが言ったコトも、
父さんが悪いだけだから、

何も気にするなよ。

ほら、
泣かなくて良いから。」と、




そういう出来事もありました。




親戚や同じ年の同級生の従兄弟のお家は、
新築のピカピカな家や、
もう1人の同級生従兄弟の家も、
新築の広いお家でした。
今でいうパンを焼く
ホームベーカリーもあって、

鍋料理とかに使用する
カセットガスコンロもあって、

当時の我が家は、
冬鍋料理すらなかった
そういう状況の我が家でしたので、



(初めてカセットガスコンロを見た時は
弟と2人で、

元センも無いのに…(* ̄ー ̄)
"どんな仕組みで
ガスの火が着火してるんだろう?"

不思議に思い疑問を従兄弟の方の伯母に
当時,訪ねてみた記憶があり、
たくさんの親戚の前で
めちゃ伯母に大笑いされた記憶があり、

その当時、
弟と2人唖然とし、
悄気てしまい
やっぱり聞かなければ良かったと…( ̄ー ̄)
後悔したまま我が家へと帰った
苦い思い出の記憶が残っています。)



従兄弟は各々で、
自分の部屋も持っていて、

とても羨ましく思いながら、
でも、
我が家は
我が家なのだからと、

言い聞かせながら、


そんな小学生時代の私でした。)




家族4人分(今は亡き両親と・
当時,小学生だった私と,2つ下の弟と。)



先程にも書きましたが、
(当時、1990年生まれの妹が
誕生する前の出来事
平成の時代になるホンの少し前の
話しです。)





そんな色々と様々な出来事の日々の中、


当時の我が家の
毎日の食費は、

先ほどにも書きました通り、


当時の我が家の家計状況は、
豊かとは遠く

そんな家計状況でした。




(1000円分を500円"朝,夕食分に分けての
遣り繰りでした。"

当時幼き頃の弟の手をひきながら、
2つ下の弟と一緒に、
500円玉を握りしめて

当時の近所にあった
売店(マチヤグワァー)まで
テクテク歩いた小道で、

夕食の買い物へと出掛けながら
郵便ポストの真上に落ちていた(置かれてた)
1500円を見つけ拾い

弟と2人で、
その郵便ポスト真上に落ちていた(置かれてた)
自分達が握りしめてる500円よりも、
さらに上の金額の
ビビりながら"1500円を拾い"
それを
そのまま交番まで届けに行ったコトや


売店のオバーが、
からし菜と、
島豆腐を、

500円から
250円に
いつも母に内緒にして
弟や私に手渡しながら
まけてくれたコトや


売店のお菓子をオヤツ代わりに
好きなお菓子選んで帰りに食べなさいねぇー。と

弟と私に

アイスクリームと
カレーせんべいと
塩せんべいと

食パンとチョコジャムと
チョコドーナツと

10円のチョコと
5円のチョコと

カールのお菓子と
ポテトチップスと

アイスティーと
オレンジジュースと

買い物で訪れる度に
いつも手招きして
紙袋にオヤツのお菓子を用意してくれて

それを、

"遠慮せずに持って行きなさい。"
と、
渡してくれたことや




猫ちゃんと一緒に暮らしてた
独り暮らしをしてた近所の
オバーのとこに寄り道をして、

その日学校であった出来事や
今度の学校行事に来てね。
と話し終えて

オバーの顔をみにいきながら
猫ちゃんと戯れ過ごし



急ぎ足で
家へと帰り

様々
色々


景色も風景も
かわるガワルありました。


当時は、
まだ、
1990年生まれの妹が誕生する前の

出来事の話で。


そんな当時のコトを
"ふと"懐かしく思い出しながら"


この話しの続きは、
また、
いつか何処かの記事で、
見通しは出来ないのですが、
色々なタイミングが出来た時に
マイペースに書けたらなーと、
今はそう思ってます。








今日も1日
ありがとうございました




"暑さも続き"
体調管理も大変ですが

身体に気をつけなから、

明日も素敵な優しい良い1日を!










【関連のような記事です。】
深い意味などはございませんが、
自分自身用として
"とりあえず"書き置きしました。



ニンジン紅葉野菜丼☆(簡単料理後の写真と言葉そえての日記)