ある日のカチュー湯。(写真とマイペースな,ただの昔話長々と。」 | はるブログ「私の時間.書き綴り場所」

ある日のカチュー湯。(写真とマイペースな,ただの昔話長々と。」

タイトル
「ある日のカチュー湯(カツ湯)♪
写真とマイペースな,ただの昔話と。」






①(今回の記事写真内容)

とても懐かしくなり
"ふと!?"
味わいたくなった
(カチュー湯)カツ湯を作った時の撮影写真と



②・(今回の記事内容)

私の束の間のヒトトキの時間、


・マイペースな,ただの昔話、
懐かしい味と話のアレコレ長々と。


・私のヒトトキの"何かを"
(少し手紙風ぽくでもあり、)
(少し語り調ぽくもあり。)



束の間のヒトトキの中で
マイペースに、

"何かを"書いてみたくなり、

"何処か自分自身への手紙風でもアリ"
"何処か大事な何かへの手紙風でもアリ"

思いを1つ1つ辿りながら

"自分自身へ"
"感謝の思い出へ"

そんな風に、
今回の記事を書き綴りました。







【生前の大正生まれの祖父の言葉を
思い出しながら。】


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

手間ヒマも労力も時間も
とてもかかるけれども、

とても遠回りしてるかもしれないが

遠回りでも、

1つずつ進む針の音は
進む道と一緒に響いているし

遠回りしてるからといって
自分自身が取り掛かってる事や
取り組んでる事に
自分自身だけは絶対に責めちゃいけないよ

"何かを育てる事も"
"何かを作り仕上げる事も"

正直に生きてたらね
大丈夫

"何かを作る流れが
どこかで繋がって

大事に育てる道のりと時間がかかってこそ"
優しいモノが出来上がる。

だからこそ、


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


という言葉を思い出しながら、
ただ書き綴りました。




 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


ある日のこと。



なんだか懐かしく感じて
久しぶりに

カチュー湯を作りました


・(今回の写真は、)

沖縄の(カチュー湯)を作った時の
撮影写真です。




3パックの絹ごし豆腐が1つ
残ってたので、

花カツオと小松菜と小ネギで

(削り節)を使用するのですが
私は残ってた花カツオを使用して
作りました

好みの味付けをして

(私の場合は少し御味噌を一人分足し
味の確認と調整で、
いただきました。)

1人分の容器に足してお湯注いだら完成)


"ありがたやー"と呟き御挨拶
いただきました♪



とても味が懐かしくなり


懐かしくなったワケは
特にナイのですが、


「ただの昔話を。」


"ふと"

思い出す時の
"あの懐かしい味。"


なんだかんだと、


"あの頃と"

"あの時からの"



月日と時間と
季節の過ぎ去る流れの早さを


ー今までよりも更に、
とても早く感じる日々。ー





私が幼かった当時、
亡き両親が、
共働きで留守が多かったので、

ほとんど、
(母方の祖父母)
亡き大正生まれの祖父母の家に
預けられている事が多かったのですが


サトウキビと田んぼの農家を営んでた
亡き大正生まれの祖父母が
毎朝,カツオ節を削り器で削り
それにお湯を注ぎ作って
"カチュー湯を"味わっていたので。


大正生まれの亡き祖父は

キャンベルスープ クリーム
マッシュルームの

マシュルームのスープ缶の
スープの味が好きで

缶詰めの中身を缶から取り出して
少し牛乳を足したり
時には豆乳を足したりしながら
葉野菜と一緒にあたためて
朝のメニューの1つに味わってました



あとは、
玄米の甘い飲み物が好きで
あとは祖父の楽しみの1つに

農業作業の帰りに
当時の農協に販売されてた
柔らかな黒糖を一欠片を
お茶と一緒に味わいのんでました


オヤツの時は
缶詰入りの甘い豆の…

(昔はよくスーパーで見かけたけど
今はあるのか?無いのか?
ちょっと分からなくて。)

それを冷蔵庫に冷やして
幸せそうにいただいてました。


大正生まれの亡き祖母は
朝の御飯はパン派で
人参と玉ねぎとグリンボールの炒め物と
トマトと玉ねぎとワカメと葉野菜を黒酢で少し浸けたのに白ごまそえて
あとは、
魚のアラの部分を茹でて臭みを取り除いたのをカチュー湯に入れて
一緒にいただいてました。



あと、


祖父はお肉が好きで
祖母が作っていた手料理は、

全部、
"残さず美味しい幸せな顔で"
いただいていました。




私が幼かった当時の頃の話しです。


祖父は、

毎朝、
ゼンマイ仕掛けの古時計の
ゼンマイのネジを鍵で回して
柱時計の針を動かしてから、

田んぼや、
サトウキビ畑に向かうのが日課でした。



まだ当時、
幼かった私に、


草の葉で
流れ船を作ってくれたり、


ブランコを弟と妹と私にと
手作りしてくれたり、



当時,小学生だった頃の話しです。


私が田んぼの蛙とアメンボとバッタの虫が
泣くほど大の苦手だったので、


田んぼを前にして怖じ気づき。




"手のひらを太陽に♪"を




怖じ気づく気持ちを必死におさえて、

田植えの手伝いをしながら、

苦手だった蛙さんやアメンボさんに向かい

小声で歌ったのを♪

恥ずかしく
懐かしくもアリ、



そして、
サトウキビの収穫の時にも、

ふるえ怖じ気づく心をおさえて、

同様に小声で歌いながら

でも、
やはり怖くて、

バッタやトカゲの虫を前に固まっていた私に、

「……。」



そんな私に向かい、


「もう蛙居ないから
大丈夫だから
早く苗植え手伝って
ほらっ
苗持って。」


「トカゲもバッタも何もしないから、
サトウキビの収穫手伝って
その後、
弟と妹の面倒みて。
あと、みんなの分のお弁当も、
簡単で良いから作って持ってきてよ。
頼んだよ。」


祖父母は、
そう言い残し直ぐに農作業に追われて
日が暮れるまで
農作業をこなし続けていました。

また、
小学生だった頃の当時の私は、

小学校から帰宅後、
宿題を片付けて、

お弁当を作り届ける
弟と妹の面倒をみる

というのが、
ほとんどでした。

時々は、
友人みんなで買い物に出掛けたり
遊んだりもしましたが、

いつも、
弟と妹を連れて歩かなければならなかったので、

結構,大変といえば大変でしたが、

弟も妹も
私のあとを追いかけて離れなかったので、


それから、
当時の、
唯一つの楽しみと心待ちにして感じていたのが、


夏休みに帰省して来てくれていた

神奈川県から帰省して来てくれていた
いとこ家族が訪れてくれることでした。


一緒に、
蛍を見たり

花火をしたり、

絵を描いたり、

お年玉で貯めて買ったカメラで、
当時の景色を、
互いに
写真を撮影したり



過ぎた日々と季節の中で、

色んな出来事がありましたが、

それも、
今となっては"宝物の思い出の中の
何番目かの1つとなりました。"



大人の今でも、

蛙さんやアメンボさん…
トカゲさんバッタさん…

"ごめんなさい。"
怖くて苦手なのです。
(好きになれるように克服しますね。)


それから、
御寿司とお刺身と海産物系が苦手なので、
(美味しい。
好きな味だと。
好きになれるように克服しますね。)


"克服しなきゃならないモノや事が
たくさんアリ…頑張ります。"






今は亡き、

・(母方のオバぁーへ)
・(母方のオジぃーへ)
・(父方のオジぃーとオバぁーへ。)
・(両親へ。)



・ここからは、
(少し語り調な手紙風に。)
書きました。







オバー、


そちらでは(空の向こう側では、)

オジーと仲良く
喧嘩せずに

元気に笑って過ごせているでしょうか。


オジー、
大正時代から、
昭和、
平成、

"令和"という
新しい時代になりました。


オジーの生まれた大正時代から、
生きてきた,その後の時代から、

変わってきたようで、
変わっていないようにも
感じる事がありますが、


"大正時代の頃の事は、
私は知らないのですが、"


今度は、
"私からオバーへ渡す"のではなくて、


"オジーからオバーへと、
渡したいお土産を、
素直に照れずに渡してくださいね。

オバーも、
きっと、

その方が嬉しいと思うから。"


"令和の時代は、"


自分自身の気持ちや心に、
素直に正直に生きやすい

"優しい時代ですよ。"



オバーも、
オジーも、

きっと、
自分達の事はいいからと、


二人で、



私の事を心配してると思いますが、



それから、

父さん
母さん、


父方の祖父母の、

オジーへ

オバーへへ、


母方の祖父母の
オジーとオバーへ。



いつも見守ってくれて
"どうもありがとうございます。"

私は、
父さんと母さんと、
父方の祖父母のオジーとオバーと、
母方の祖父母のオジーとオバーに、

足りないくらいの
"ありがとう"と感謝を忘れずに
日々を頑張っています。

大事に一緒に歩んできた道のり
1つ1つの思い出を忘れずに。
大切にしながら。

大事に想い心から尊敬しています。
家族として。
親子として。
孫として。




父さんも、
母さんも、
父方の祖父母の、
オジーとオバーも、
母方の祖父母の
オジーとオバーも、


ハラハラして
日々の私を、
空の向こう側から、
見守ってくれていると思いますが、



安心してください。
私は元気だから大丈夫ですよ。



相変わらずな私ですが、

日々、
"新しい発見に巡りあったり、"

今までの私自身が知らなかった
"新しい色々な出来事に出逢えたり、"

"ふと"
寂しさを感じ思う事もありますが、


"生きてたら誰しも、
そう思う事はあると、"


また改めて、
角度と視点を変えてみながら

色々な方向から、
1つ1つのヒトトキを、
1つ1つのヒトコマを、
楽しんで歩んでいます。


空とともに、

日々を過ごしなから
色々ですが、

まぁー、
元気にボチボチと、
頑張って過ごしています。



最近、
つくづく感じ思うのです。



あの当時に、

もっと沢山
オバーから
沖縄の歴史や行事や文化とか、

野菜買う時の知恵や
田んぼやサトウキビの収穫の時の
あの頃の畑作業の手解きも

今さらなんだけど
尖らずに素直になって
もっと習っておけばよかったと。



オバーの生きてきた
オバーの歩んできた道のりの話や

色んな出来事の話し
もっと、
ちゃんと耳を傾けて聞けてあげれてたら


今さらなのですが、
オバー、

オバーが2006年に他界した後にね、



今はね時代の元号が変わって
令和って新しい時代になったんだよ!

なったんだけどね

オバーにも
今の時代見せてあげたかったなぁ

ほんと、
いろんな出来事があり過ぎて

オジーにも
母さんにも

それから
父さんにも

今、
こんな時代なんだよ

って話せたらなぁー

なんてね
ただ,そう思うだけで


そう思う事しか出来なくて
空の場所から聞いてもらえてたら


現実の(いまの)私は、
独りだけど、

まぁ…日々なんだかんだとあるのだけれど

その出来事さえも角度変えてみると

また知らない世界が
広がって知れて触れて感じられるから

その出来事1つ1つが愛しく
難しい出来事もあるにはアルのだけれど

"何故だかね
ホンノリ淡くワクワクと楽しいんだ"

目の前を自分自身の気持ちで心で
自分自身に正直になれる選択の自由がアル幸せや
元気に歩いて笑えてる幸せがアル事を
知ったから

元気に歩いて笑えてるよ!


時代が変わって時移ろえども
変わらず

私は
オバーの笑顔大好きだよ!


私は
私で

私なりに

"何気ない"って幸せを大事にしながら

"自由に選択出来る幸せも
決して当たり前なことだと思わずに"

"そのままの自分自身で
素直な気持ちのままで
自分自身の気持ちに正直に"

毎日を走れる事に感謝して
日々を生きてるよ

空から見てると思うけどさぁー
安心して見守っててね。

月日と季節が
とても早く過ぎて感じてさぁ
(もう…
そんな事を感じる年齢になったのかな)



そうそう、

祖母はお魚のアラ汁が好きでした
大正生まれの祖母でしたが…


何故だか?

ポテトチップスが大好きで
ヤクルトも好きで
ミカンも好きで


私が送迎送り迎えしてた
病院通院の時に
こっそりと…
ひっそりと…

私にバレないようにと

バックに忍ばせていました。

実はね、
オバー、


私は知ってて
"知らぬフリをしてました。"


オバーが嬉しそうな笑顔で、
ハリキッテ、

私の運転するマイカーに乗車する姿をみて、

持っていくのを
無理に止めさせる気にはなれませんでした。

私が、
オバーの立場なら、

きっと、
久しぶりのドライブやお出掛けが
嬉しくて楽しみに、
その当日を待っていたと

そんな風に、
オバーの気持ちや心の嬉しさを、
想像して寄り添い思ったからです。



私が運転する車で嬉しそうに
楽しそうにドライブ遠足を満喫してました

病院について
受診の際に

カバンに忍ばせてた"ミカンが転がり落ち"
ドサッと、
ポテトチップスも同時に飛び出してしまい


オバーにしてみたら、

"上手く隠してたハズなのに…"
(ヤバい(* ̄ー ̄))"→(汗)


とぼけながら、
慌てるオバーの姿に、


お医者さんは、
苦笑いして問診をしてくれました。


問診をうけて


その帰り道は
オバーの寄りたい所に運転して連れていきながら
買い物したり、
美容室へカットに連れていったり

「留守番して心配して待ってる
オジーのお土産も買わないとねー。」と、

よく、
オジーと喧嘩してたオバーは
なんだかんだ言いながら


心の中では
オジーの事を大事に想い
とっくに喧嘩してた事も忘れ
すでに許していましたね。

オジーはオジーで、
なんだかんだ言いながら

いつも、
オバーの大好物の食べ物を
農作業の帰りに
近くのマチヤグワァーで(小売り商店で)
買って帰り

オジーからと言わずに
私からと言って渡してと

(自分で渡したら良いのに。と
私はそう想いながらオバーに渡してました)


大正時代生まれのオジーらしい
なんとも歯がゆい
頑固といえば頑固で
素直になるのが苦手で
不器用な表現法方ばかりの
オジーの姿がそこにありました。




オバーと一緒に
その帰り道に、

オジーの大好物の
黒糖と
あんパンを買って帰ったのが

つい昨日の事のように思い出されます





2006年の冬の青空の日。
祖母が他界した

その日、


祖父は、
黙ったまま静かに


オバーが腰かけてた椅子を見つめてました。


ずっと…
立ち尽くして。


泣いてはいなかったけれど、

うっすらと、
涙を堪えてたのを覚えています。


オバーの大好物だった
"いなり寿司"を持って、



それからの祖父は、
2007年に他界するまでの間、


祖母が腰かけてた椅子に座り、


庭の景色を眺めたり、

私達の前では、
いつもと変わらない元気な姿で
ふるまっていましたが、

時折,
"ふと。"寂しそうにも見えて感じてました。


祖母が2006年に他界した後、

祖父は、
2007年に心不全の病気療養中の末
青空の冬の日に他界しました。


亡き父方の祖父母も
亡き母方の祖父母も
亡き両親も

今の道のりを独り歩んでる私にとって

その時の
その頃の
1つ1つが愛しく大切な心の宝で



時々の中で躓く時
ふと迷い風が吹く時


そんな時に
"自分自身を思い出させてくれる"
そっと背中をさすってくれる
寄り添ってくれる
大事な
大事な
私の尊敬する大事な家族です。



本当は
あの当時も
あの頃の月日の中でも
ゆとりがあれば
旅行にでも連れて孝行出来たら良かったのだけれど、


私が運転するマイカーで
ドライブがてらに
好きな場所や行きたい場所へと
連れていけるだけで
いっぱいで。



今となっては
喜んでもらえてた姿が
楽しんでくれていた姿が
懐かしくて

柔らかく
あたたかい
戻らぬ日々ばかりで。


とても幸せな
季節ばかりが思い出されて

大事なモノは
いつまでも褪せず

そんな風に感じる事ばかりです。



戦前と戦後

何一つ残ってなかった所から


祖父母は互いに力を合わせて
寄り添いながら

亡くなる前まで

サトウキビと田んぼの農家を営み
農家としての仕事に誇りを持って


常に自然と共に
自然の流れを観察しながら

あとは
水にとても拘りを持ち


農作業のバランス1つ1つを
とても大事にしてました。



「食べ物は人の口に入るモノだから

手間ヒマも労力も時間も
とてもかかるけれども、

とても遠回りしてるかもしれないが

遠回りでも、

1つずつ進む針の音は
進む道と一緒に響いているし

遠回りしてるからといって
自分自身が取り掛かってる事や
取り組んでる事に
自分自身だけは絶対に責めちゃいけないよ

空はね、
そういう姿を
そのまま静かに何も言わずに
信じてくれて
そっと寄り添いさすりながら
見てくれてるから

いつも頑張って生きている自分自身を
信じるんだよ

キラキラ輝いて笑顔で
幸せな人生を生きるんだよ


柔らかく
あたたかく
見守り続けてくれてる
空がある事を信じてね

元気があれば
元気でいてくれてたら
あとはね
自然に流れが導いてくれるさぁー

何でもそう
ゆっくりでいいさぁー

正直に生きてたら
あとは
どうにかこうにかなるもんだよ
下をうつ向かなくても良いんだよ


"何かを育てる事も"
"何かを作り仕上げる事も"

正直に生きてたらね
大丈夫

"何かを作る流れが
どこかで繋がって

大事に育てる道のりと時間がかかってこそ"
優しいモノが出来上がる。

だからこそ、
愛しく大切に
日々の農作業を大事にしたいんだと、」



生前祖父が私に話してくれたヒトコマです。


なんだかんだと長くなりましたね。


ごちそうさまでした。



今回の記事は、
この辺で。