2015まで年11月までの記録 | haru loves music♪



*写真に意味はありません







どこから整理したらいいだろう

今となってはあいまいで

少し間違いもあるかもしれない




2011年3月に胃がんが発覚し


2011年4月に入院&胃の全摘出(手術の不具合で長期入院)


胃がんは500円玉より少し小さいくらいの大きさまで成長していたが、


病理検査の結果、胃の内部のみで外側へは浸潤していなかったため


ステージ4一歩手前のステージ3という結果でした


退院後、とても軽い飲み薬タイプの抗がん剤を服用していたと思う


副作用もほとんどなかったと思う、、、退院していつもの生活に戻ったら


あんなに調べたり落ち込んでた日々はすぐに忘れてしまっていた


私はひどい娘かもしれない、、




2013年5月再発により二度目の入院&手術(肝臓の一部と腹膜に転移したがんの切除)


この再発はステージ4になったことを決定づけました


ステージ4は末期がんを意味します


一回目と同様、今の状況の把握に活字との戦い


最悪の事態まで調べ愕然とする



幸い手術は成功


開けてみて、切り取れない場合もあり得ますといわれてたため最悪の事態は避けられたが


やはりステージ4という事実は両親も私も簡単には受け入れられない事実でした


入院はびっくりするほど短かったものの


退院後きつい抗がん剤を受けることになりました


その説明の時から病院へ同行するようになりました


たくさん調べた知識から、、、当時、私は抗がん剤に反対をしてしまいました


ですが、父の想いと向き合って抗がん剤を選択


自分の命の選択は家族であってもできないものだとおもいました


それ以外にできること


私にできることをその時は必死で考えました




2013年秋から6クールの抗がん剤投与(プラチナ製剤であるシスプラチン)


抗がん剤の投与自体は出るであろう副作用も少なく


言われていた脱毛も父は起きませんでした


苦しんだり吐いたりといった症状はなかったので、ありがたかったですが


きつい薬です、、、がんだけではなく、全身の細胞を壊していく薬です


明らかに体重が減少していき


歩き方がおぼつかなくなり


下痢、皮膚のかゆみ、ひどい貧血(体重減少のせいかもしれないが)もあり


立ち上がった時に意識を失い何度か転倒し、お正月に顎を縫ったことも、、、


食べることが好きな父が食べれなくなる姿


まだ63なのにみるみる衰え70代に見え


車の運転も畑の世話も散歩もできなくなりました


実家に帰るたびに目に見えてわかる変化に


笑顔をつくるのも必死でした




2014年1月に一旦抗がん剤が終了しましたが


父も抗がん剤が死の薬であることをを自分の体の状況から理解し


今後は抗がん剤はしたくないとの結果に


幸い、6クールの抗がん剤が功を奏しマーカー値はかなり下がりました




抗がん剤で60キロ以上あった体重が48キロにまで減ってしまった父でしたが


抗がん剤をやめ、少しずつ食欲も戻り、半年以上はかかりましたが、


また普通に散歩や運転などもできるようにまで復活しました




ですが、再び2015年7月マーカー値が少し上がったと聞きました


いつも母に電話するとき「お父さんどう?」と聞いても


「元気よ」という答えしか返ってきませんでしたが


母は私の母ですから


隠し事は苦手です


聞き方を変えるとうろたえてしまうのですぐにわかってしまうのです




だけど言わないようにと口止めしているのは父なこともわかっていて


あまりしつこく聞くことはできず


時間だけが過ぎていく


今年は毎月実家へと帰れるようにしてきました


夏ごろからは少しずつ体重が減ってることがわかりました




この秋、急にカニ食べに旅行へ行こうと父が言いました


去年の12月、城崎までカニを食べに行ったのですが、その時、「来年もここに来ようといっていました」


なのに


行こうという温泉は三朝温泉


泊りで行こうと


嫌な予感はありました


だけどおーちゃんに学校を休ませて、主人に有給をとってもらって


11月27日金曜、鳥取にある三朝温泉へ行きました


一人2,5杯ずつのカニ尽くし


食べいれないくらい豪華な食事


父はやっぱり半分も食べれていませんでしたが、すごくうれしそうな笑顔でした



母と温泉に二人で入るのはいつ振りだろうか


楽しい時間なのに、聞くのはつらかったが


父のこと聞いてみた


やっぱり必死に隠そうとしながらも、ぼんやりと今の状況を話してくれた


マーカー値がぐんと上がったこと


内緒で大腸のポリープ手術をしてたこと(それ自体は悪性ではなかったが)


旅行あけて11月30日、両親の結婚記念日の日に精密検査を受けに


二度お世話になった神戸の神鋼病院へ行くとのこと


お父さんは私や兄には話をするなと止めていること


不安の的中に言葉に詰まりそうになったが、母のほうが必死なことも知っているので


必死で考えたプラスの言葉で励ますことしかできなかった






つづく







haru