「算命学」をGoogleで検索すると
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占いに関するものばかりで思想についてはあまり語られていません。
そもそも占いのために生まれた学問ではありません。
陰陽で表せば、
陽:思想学
陰:運勢学
どんな時代を経て生まれた学問なのか?!
六十花甲子は、殷の時代の遺跡にはあったと言われています。
つまり、4000年前には既に陰陽論、五行思想、暦の概念があったということ。
算命学の原型を作ったと言われる「鬼谷子」が存在したのは
周王朝の後期 春秋戦後時代の「斉」
現在の山東省あたりで、「鬼谷」とは地名で水の豊かな地域だったそうです。
周王朝の首都「洛邑」から鬼門方向に「斉」があり、水が豊かな地域とは
黄河下流の地域のことでしょうか。
紀元前403年 春秋時代の終焉から戦国時代に入り、紀元前249年に
呂不韋によって「周」は滅ぼされ、キングダムの時代へ向かいます。
戦乱の時代に国力を上げるには、武力だけでなく知恵も必要で
富国強兵のために各国から有識者を集めていた時代。
身分に関わらず優秀な者には貴族待遇で厚遇したのが
「斉」の威王(在位:紀元前356−320年)
「稷下の学」と呼ばれるラボでさまざまな学派や思想をぶつけ合い
多くの学問が体系化しました。鬼谷子がこのラボの学士であったのか、
実在するのかも定かではありませんが「斉」には学問を追求できる
風土があったのでしょうか。。。?
諸子百家と呼ばれる、9つの学派を「九流」といい、
<儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家>
「九流の術士」とは、
九流を操るほどの「異常性を意味する干支」で
<丁亥、辛巳、壬午、戊子>
この4つの干支のうち2つ持っているのが、
奇跡の人 ヘレン・ケラーだったりします。
話が逸れましたが、
この時代には多くの思想家、戦略家が現れ、支配者層や有力者が有能な人材を
登用しますが、「秦」ほど身分や生まれに関わらず積極的に登用した国はなく、
ラボで学力強化をした「斉」と多様性を取り入れたダイバーシティな「秦」が
戦国七雄の中で、一時期、東西の二強となるのは興味深いところです。
秦王朝から「一子相伝・門外不出」とされたと言われている算命学。
西の果ての「諸侯」の一つだった「秦」が王を名乗ったのは、26代恵文王の時代
きっかけは、
恵文王の前の25代君主「孝公」が「法家思想」を取り入れ中央集権化をはかったこと。
法家「商鞅」の他、縦横家「張儀」がキーマンだったことは史実の通りですが、
商鞅はあまりにも冷徹で強権的な大改革で反感をかい、
孝公が没すると謀反の罪を着せられ車裂きの刑に処され
張儀も太子の即位後、身の危険を案じ「魏」に亡命しているように
500年以上続いた戦乱を10年ほどで統一し、15年で滅亡してしまう「秦」が
どこまで算命学を大事にしていたのか疑わしい気もしますが、
文字の統一は次の王朝に引き継がれた大きな要因と言えるのかもしれません。
とはいえ、紀元前の2200年前の話で
この時代の算命学はまだまだ原型に過ぎず、技術革新が進むのは
やはり戦乱で、その後の数々の時代を経て現在の形に進化していき、
時代とともに改良され、受け継いだ人達の知恵で発展してきた学問なのです。
そして、算命学の根本的なテーマは、
「人間とは何か?」
なぜ生まれてきたのか? なぜ死ぬのか? どう生きればいいのか?
思想、理論から推測したのが占いの部分なのです。
キングダムを読んでから、時代背景、人種、文化、気候、地理的条件など
ふわっとしていた知識が具体化し、よりイメージしやすくなりました。
ちなみに、この時代の日本は縄文時代〜弥生時代
土器に縄目模様を施していた微笑ましい時代で高床式倉庫で
ネズミ対策や湿気対策をしていた頃には
秦は中華を統一し「万里の長城」が建設されていました。
圧倒的な文明の差と算命学が生まれた背景は、
それほど大きな戦争を繰り返していた歴史があるかどうかの差で
日本はそれほど平和に暮らしていたということなのです。
参考文献
| 日本国紀 [ 百田尚樹 ] 1,944円 楽天 |


