実は
私たちが日常的に
これが生命だと信じている
生命の概念と、
神が抱いている生命の概念は
180度、
まったく正反対のものです。
私たちが思い描いている生命とは
すべて肉体に属するものです。
それは
別の肉体から
別の肉体が作り出され、
新しく作り出された肉体が
外の世界に産まれ出て、
生きるために与えられた、
ごくわずかな時間の間に
喜びや悲しみ、
安らぎや苦痛、
愛や憎しみという
相反し、揺れ動く、
二つの感情を経験し、
自分は傷つけることも、
傷つけられることもありえる
孤独で分離した肉体であり、
この孤独な存在こそが
本当の自分なのだと
信じながら
生きていくことになります。
そして、
神からの分離という幻想ゆえに
自分には幸せになるために
必要な何かが
欠けているという
欠乏感を絶えず感じ、
自分の外側にある
目に見えて、耳に聞こえて、
触れることができる
何かが自分に
幸せをもたらしてくれると信じて
自分の心の外側にある
世界のなかに
永遠の幸せを
もたらしてくれそうな
五感で感じられる
何かを探し求めます。
肉体は、
自分に永遠の幸せを
もたらしてくれそうな何かとは
自分の外側の世界のなかに
あると考え、
目に見えて、耳に聞こえて、
触れることのできる、
形あるもの、あるいは
五感で感じられるものであれば、
何でも良いと考えて、
物、金銭、
自分の肉体を美しくしてくれる
衣服や化粧品や宝飾品、
健康に役立つ薬剤や
サプリメント、
自分や他者の美しい容姿、
セックス、グルメ、
ハッと息を飲むほどの
美しい自然の風景や
芸術や音楽、
そして、
自分と特別な愛の関係を
結ぶことができる
他者という名の
分離した肉体を追い求めます。
肉体こそが自分だと思っている
自我は自分のなかに
空虚さを見て、
自分は自分を幸せにするために
必要なものを自分のなかに持っていないと
知覚し、自分の心の外側にある
世界のなかに五感で感じられて、
自分を幸せにしてくれそうな
何かを絶えず探し求めています。
しかし、自我が肉体を手段として
探し求める
目に見えて、耳に聞こえて、
触れることができる
何かは私たちに永遠の幸せを
もたらしてはくれません。
夕焼けや青空や虹などの
美しい風景も
ある瞬間が過ぎれば儚く
消え去ってしまいますし、
美しい音楽の調べも
曲が終われば
やっぱり、
儚く消えていってしまいます。
目に見えて、触れることができる
愛する人の肉体も
死や病気という幻想によって
いつかは儚く消えてしまいます。
すべての形ある物も
時間の流れと共に壊れ、
朽ち果てていく
運命にあります。
このようにして、
私たちが幸福追求のために
追い求める
目に見えて、耳に聞こえて、
触れることができる何か、
五感で感じられて
実体があるかのように
感じられる何か、
自分の心の外側にあって、
自分に幸せを
もたらしてくれそうな何かは
ほんの一瞬の間に、
儚くも消え去ってしまうのですが、
その理由は、
この世界が私たちが抱いている
『すべての「生命」は
「死」から生まれる。』
という奇妙な信念が投影された
幻想の世界だからです。
そして、私たちの心のなかの
『すべての「生命」は
「死」から生まれる』
という誤った奇妙な信念を
投影することによって
作り上げられた
私たち自身の肉体も
病気や老化や
死という幻想によって
儚く消え去って
ゆくことになります。
私たちの心のなかの
『すべての「生命」は
「死」から生まれる』
という奇妙な信念が
投影されたこの世界は
すべてのものに
始まりと終わりがあり、
生と死があり、
創造と破壊がある
相反する概念が渦巻く
混沌とした世界であり、
私たちはこの混沌とした
肉体としての生命こそが
真の生命だと
固く信じていますが、
神にとっての生命の意味とは
私たちが考えている
生命の意味とは
まったく正反対のものなのです。
(続く)