我が家の庭に今年も優しいオレンジ色の「アンネのバラ」が咲きました🌹
膠着状態が続くロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルとパレスチナにおける大規模な武力衝突と、心が痛むことが多いですが、花が咲くと明るい気分になります。
アンネのバラにはアンネ・フランクの平和と自由を願う想いが込められています✨
🌹アンネのバラ(Souvenir d'Anne Frank、直訳:アンネ・フランクの形見)
ナチス・ドイツによるホロコースト(大量虐殺)から逃れて、1942年7月9日、アンネの一家4人は、アムステルダムのプリンセン運河に沿った、オットー・フランク氏の事務所のある建物の、裏庭に面した3階と4階の息の詰まるような部屋に、ファンダーン氏一家3人と歯医者のデュッセル氏と共に隠れました。
そして1944年8月4日、ナチスに逮捕されるまでの26カ月の間、アンネは恐怖の隠れ家生活の中で日記を書き続けました。
アンネはある日、隠れ家かの窓から見える草茫々の、裏庭の一角にある木の下に、バラが咲いているのを見つけました🌹
この空襲にもめげず力強く生きているバラに、アンネは慰められ、励まされ、生きることへの希望をかきたてられました。
もし、神さまが私を長生きさせてくださるのなら、私は社会に出て、人類のために働きたいのです。
-アンネ・フランク-
🌹アンネのバラが最初に日本にやってきたのは1972年です。
その前年、1971年に日本とイスラエルの文化交流のために合唱団がイスラエルを訪問しました。
合唱団の方々は、イスラエルのレストランで偶然アンネ・フランクの父オットー・フランク氏に出会います。
その時から合唱団の方々とオットー氏との交流が始まりました。
そして1年後にはオットー氏の好意によりアンネのバラ10株が日本に送られました。
輸送事情の悪さから苗木の到着までに1ヶ月もかかってしまい、10株のうち9株が枯れ、1株だけが合唱団の一員で聖イエス会の創設者でもある大槻さんの庭に根付きました。この1株がアンネのバラと日本を結びつける最初の1本となりました。
オットー氏は更に10株のバラ苗を日本に送り、その10株のうち1株が、岐阜薬大の大野先生に渡りました。
その後、大野先生が挿木で3株くらいに増やしたうちの1株が岐阜県ユネスコ協会の平井会長さんへと渡り、農大を卒業しバラ苗の生産を始めていた大野町に住む従兄弟の青木宏達さんに増やして欲しいと頼んだそうです。
青木さんがその1株から大切に増やし続けて、DNAを受け継いだ「アンネのバラ」を岐阜県ユネスコ協会として各地に贈ってきました。
2014年3月に東日本大震災の被災地の岩手県大船渡市
2014年6月に東日本大震災の被災地の南三陸
2015年3月に大槌町の風の電話、釜石市鵜住居の宝来館
2018年5月にユネスコ世界記憶遺産に登録されている舞鶴引揚記念館
2019年5月にユネスコ世界文化遺産 白川郷にある白川郷学園
に寄贈してきました。
『戦争と差別のない世界になって欲しい』
アンネの想いは生き続けています✨
岐阜県ユネスコ協会・写真家・防災士 三浦寛行
https://www.facebook.com/jounetsucameraman/