母とのドイツ居酒屋 パート2 | 山あり谷谷山あり谷谷 恋に人生に情熱大陸

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三十路♀。日本に住めなくて毎年ひとり海外移住
日本と海外を行ったり来たり、どこにも落ちつかず、誰とも落ち着かず
そろそろ本当に疲れてきた。どこかの国に永住して落ち着きたい

今日は仕事帰り、母とデパ地下で待ち合わせをしてお惣菜を買って帰宅する予定だった。
けど、母が「あのドイツ居酒屋で食べていかない?」と言う。
昔、母がよく行っていたドイツ居酒屋でずっと長い間母はいきがかったいた。
わたしは今日は落ちていて、正直家にすぐに帰りたかった。
でも母は、ドイツビールを大好きなわたしに一杯飲ませたいと言う。
きっと母が行きたいんだろうと思って、行くことにした。席に座ってもその気にならずわたしはノレる気分じゃなかった。

でも大好きなドイツのワイスビール(白ビール)を飲んで、ジャーマンポテトとソーセージを食べているうちに、ママとわたしとの会話は弾むようになっていった。
ワイスビール500mlを飲み終える頃には、わたしは心が開いてきてもうなんでもママに話せると思った。
だから、この数ヶ月一切言えなかったわたしの本当の心の気持ちを話し始めた。

「ママ、わたしはいつもうまくいかなくてさ。いつも山あり谷ありで、辛いことばかり。とっても幸せな時もあったけど、今回も本当に辛かった。すらすらっていう人生がいいのに」泣きながら話し始めた

するとママは言った。
「でもさ、いろんなことを経験してないと人の気持ちとかわかってあげたりできないからさ、いいんだよその方が。人生らしいじゃん。スラスラの人生だったらやっぱり後でどこかでつまずく時がくる。
わたしだって、ばあさん(旦那の母親)の介護したりじいさんのことで大変だったけど、だから介護してる女性の気持ちとかわかるようになったし、自分よりももっと大変な人もいるってこともわかったし」

わたしはけっこうびっくりした。ママとは仲はいいが、深いこういう話は何年もしていない。特にわたしは悲しいことや辛いことになればなるほど、親には言えなくなるから。

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わたしの母は、義理の両親(旦那の両親)の介護を経験した。わたしが高校生の時だった。
わたしのおじいさんはとてつもなく頑固な昭和の人で、まさに卓袱台をひっくり返す人だった。自分より低い地位の人や女性を見下す人だった。自分が一流企業で出生したことを誰にでも自慢するタイプの人で、会社や外ではニコニコして良い人なんだろうが、家に帰ってくると妻への言葉の暴力はそうとう酷かった。。だからわたしのおばあちゃんは常におびえていておじいちゃんに逆らえなかった。おばあちゃんは専業主婦だったし時代的にも離婚も出来なかったんだろう。怯えてずっと暮らしてきたんだと思う。
そしておばあちゃんはアルツハイマーになった。癌だった。完全に呆けてしまい、朝は徘徊をし、廊下でうんちを漏らすこともあった。
わたしの父は長男だったため、わたしの母が必然的に介護をすることになった(決まっていた)。
実の娘(私の父の妹)は神奈川県に住んでいたが、一度も介護をしにこなかった。
母は生業主婦ではなく常に働いていた、しかも祖父母の家は市の北にあり、そのとき私たち家族は市の南に住んでいた。母はフルタイムで仕事を終えたあと、車で北まで行き介護をした。
母は残業した日も、自分の家でご飯を用意していき、夜遅くなっても北にある祖父母の家にご飯を届けに行った。母43歳。そのときの私から見たら中年のおばさんだったわけだが、
33歳の今の自分からみたら、43歳はまさに自分の人生を謳歌しているべき素敵な時期だ。
そんな時を、母は自分の旦那の両親のために自分の時間も笑顔も犠牲にしていたんだ。
そのとき、私の父は他県で単身赴任をしていた。うちの母しかいなかったのだ。
わたしは高校生で、母について平日も祖父母の家で寝泊まりすることもあった。
母は祖父母の一日中の食事を作って、朝の市の渋滞の中通勤し、そのあと疲れた体で祖父母の家に行き、食事を作り置いてきては、夜遅くに私たちの家に帰ってくる、ということを何年か続けた。
でもそのうち母もその生活が無理だとわかり、やっと正社員に昇格できた仕事を去らざる終えなくなった。相当、悔しかっただろう。今のわたしはその時の母の気持ちがやっとわかる年齢になったので、きっとそうだったんだと思う。

母と父が結婚した当時、ふたりは祖父母と同居をしていた。母はおばあちゃんにイビラレていた。昔スタイルにはよくあることだ。姑との同居やいびりがないだけでも現代に産まれたわたしたちはまだ幸せだと思う。
イビラレ散々なことを言われてきた姑の介護をする母。廊下にたらしたうんちも母がすくって掃除をする。朝、近所を徘徊する祖母。その祖母を早朝探しにいく母。そして近所中に頭をさげ謝る母。

(今、わたしはこれを書きながら母への愛情が込み上げてきて泣いている)

数年そんな生活を続けたあと祖母の癌が進行し、天国へと召された。
祖母がなくなったとなると、今後は祖父が一人になるということだ。
祖父は家のこと、家事は一切何もできないし、何もする気がさえない。”長男夫婦に何でもしてもらって当たり前”という態度でずんと偉そうにしていた。母の生活は前と変わらない。
祖父の食事を毎日作りに通わなければならない。そのとき、父はまだ単身赴任だ。

そしてそんなことをしばらく続けているうちに、祖父との同居を決意せざるおえなくなった。
母が作るご飯の悪口を祖父は近所に言いふらす。そしてわたしの家族は誰も喫煙をしないが、祖父はヘビースモーカーで部屋中ヤニ臭く、部屋の壁も茶色くなり始めた。それでも掃除もしない。
お風呂を自分で入れるわけでもない。本当に何もしない。
そして毎日大きな声で怒鳴り散らしていた。テレビにも怒鳴るし、近所の犬にも怒鳴る。そういう人だった。
わたしはその頃アメリカに住んでいたが、両親は祖父とのそんな生活を10年ほど続けていた。
そんな祖父が数年前他界した。

それから母は自分の人生を取り戻した。
母は今幸せそうだ。孫が3人いるが、わたしの母になついて自主的に一緒に”ばあちゃん”と寝ようとする。どんなことがあっても、明るく生き生きとして今も相変わらず仕事をしている。
母は決して立ち止まらないし、家事も仕事もなんでもする。
わたしは仕事は出来ればしたくなくて、早く結婚して専業主婦になりたかった。
テニスサークル、フランス語レッスン、パン作り、エステ、ジム、買い物、子育て、
そういうことをしてればいい妻に早くなりたかった。
でもわたしの母も姉もそうではない。
母は60歳の今も働いていて家事もなんでもする。
姉も社員で働いていて子供3人を育てている。旦那に頼ることなく、自分一人の稼ぎでも3人の子供を育てられるだけの基盤を築いている。
家族の血というものはそういうものなので、わたしも働かなければいけない運命の☆に生まれたんだろうな
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そしてわたしはこの夏、フランスで何があったのかをついに母に話し始めた。
親には言えないくらいにあまりにも辛い出来事だったので、このまま言えないだろうと思っていたけれど、ビールの力で(?)今日はやっと母に話せた

その男は誠意がないね。と母は言った。そんな男、駄目だ駄目!

心が少し軽くなったかもしれない

母は、わたしが相当辛いということは気づいていたけれども、特に聞かなかったと言った。
聞かなければなんで聞いてくれないの?と言われるし、聞けば聞いたで言いたくないと言われるだろうしと。それに、母は自分の母親(わたしのおばあちゃん)には内緒のことばかりで、全てを話したりしないから、わたしも全部を話してくれなくてもいいんだよ、と言ってくれた。

わたしは、やっと元カレとの恋愛が「過去」になったから、母に打ち明けられたんだと思う。

ビールの力ってすごいなー。外で飲むと高いからいいよぉと言い張っていたわたしだが、結局2杯飲んでしまった。


わたしは母に、今日連れ出してくれてありがとうと感謝の言葉を言った。
嬉しくて、母が廊下をニコニコして歩いてくる姿をipadのカメラで何ショットも撮った。
ママはとっても可愛い。
そしてママはわたしに言った。これからは笑っていてね。と