瞑想は、ほんとうの自分に気づかせるための方便にほかならない。
ほんとうの自分は創りだされるのではない。
その必要はない。
それはすでに在るものだ。あなたは、それと共に生まれる。
「あなた」がそれなのだ!
それは発見しなければならない。それが出来なければ、社会がそれを許さなければ…
そして、それを許す社会などはない。
真の自己は危険だからだ。既製の教会に対する危険、政府に対する危険、大衆に対する危険、
伝統に対する危険
というのも、ひとたび真我に目覚めれば、人は(個)になるからだ。
彼は、もはや大衆心理に左右されない。迷信的でなく、搾取されることもない。
そのように引っ張りまわされることもなく、命令されることも、支配されることもありえない。
彼は自己の光に従って生きるものだ。
統合した人は個人となる。だが、社会はあなたに個人であってほしくない。(個)であるかわかりに人格を持つことを教える。
人格(パーソナリティ)という言葉は理解する必要がある。それはペルソナという語源から来ている
ペルソナは仮面という意味だ。社会は「自分が誰か」ということについて偽りの考えを与える。
社会はただ玩具を与え、あなたは一生その玩具にしがみつき続ける。
私が見るかぎりでは、ほとんど全員が誤った場所にいる。
医者になれば途方もなく幸せであろう人が画家であったり、画家であれば途方もなく幸せであろう人が医者であったり…
正しい場所にいる人は皆無のようだ。
だから、この社会全体がこれほど混乱しているのだ。
人は自分自身の直感によらず、他人に指図される。
瞑想は、自分自身の直感力を養う助けをする。何が自分を満足させるのか、何が自分を開花させるのか、それが非常にはっきりしてくる。
そして、どうであれ、個人はそれぞれ異なったものとなる。
それが「個人」という言葉の意味だ。
誰もがみな個人的だ。
そして、自己の独自性を探求することは大いなる感動であり、偉大な冒険だ。
「新瞑想法 入門」