和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)は、インドにおける光明(エンライトメント)したマスターです。
すでに90年に肉体を離れています。
Oshoは、個人的な探究から今日の社会が直面している切迫した数々の問題を宗教を超えた超宗教性を個人の中に見出す、その道を私たちに示しています。
35年間にわたる聴衆に向かっての講和は、オーディオやビデオ、テープに収録され、世界中で650冊以上の本にまとめられています。アメリカの作家トム・ロビンズは「イエスキリスト以降、もっとも危険な人」と述べています。
自らのワークについて、Oshoは、新しい種類の人間が誕生するための条件づくりに手を貸していると言っています。この新しい人間を「ゾルバ・ザ・ブッダ」この世の快楽を味わうゾルバ・ザ・グリーク(その男ゾルバ)と内なる静寂ゴータマ・ブッダの両方を生きる人間を描いています。
和尚は、ストレスフルな社会における人間性の回復と内なる至福へ向かう道として、抑圧した感情を浄化するアクティヴでダイナミックはカタルシスの瞑想法やジベリッシュ瞑想、笑い、泣く、静かに座る3週間のミスティックローズなど数多くある瞑想法を紹介してくれています。
私たちは、個人としてのユニークさを活かし、また内なる世界へ向かうと個人を超えた大いなる存在として1つに繋がる。その広大な可能性に開いていくための、東洋と西洋のサイコセラピー含む様々なメソッドを取り入れ、その道を個人が探究できる道しるべを残してくれました。
今から、ヨーガの訓練について
ヨーガとは心を止滅させることだ。
そのとき観照者は本来の姿にとどまる。
そのほかの状態では、心のとる形に同化している。
私たちは深い幻想のなかに生きている
希望、明日、未来という幻想のなかに
人はそのままでは、自分を騙さずには存在することができない
ニーチェはどこかで、人は真実とともに生きることはできないと
言っている。人は存在するために夢を必要とし、幻想を必要とし、嘘を必要とする、と
そしてニーチェは正しい。
人はそのままの状態では、真実とともに存在することはできない
これはとても深く理解されなければならない
というのも、それを理解しないかぎり、ヨーガと呼ばれる探究に入っていくことができないからだ。
心(マインド)が深く理解されなければならないーーー嘘を必要とする心、幻想を必要とする心、現実とともに存在することが出来ない心、夢を必要とする心が。
あなたは夜のあいだだけ夢を見るのではない。
起きているときでさえ、あなたは絶えず夢をみている
こうして私を見ていても、私に耳を傾けていても
あなたのなかでは夢の流れが続いている
心は絶えず夢、イメージ、空想をつくりだしている
今や科学者たちは、人は眠らなくても生きていけるが、
夢を見ない時生きていけないと言っている
以前は睡眠が必要不可欠なものと考えられていたが、最近の研究によると、睡眠はじつは必要不可欠のものではない。
睡眠はただ夢を見るために必要なのだ。
夢こそ必要不可欠なものだ。
もしあなたが眠ることは許されても夢をみることを許されなかったら、あすの朝、すっきりさわやかに目覚めることはできない。
一睡もできなかったかのように、あなたは疲れを感じる。夜の間に異なった周期がある。熟睡の周期と夢を見ている周期が。
そこには、ひとつのリズムがある。昼と夜のように、ひとつのリズムがある。最初、あなたは40分~45分間、深い眠りに落ちる。それから夢の周期が始まり、あなたは夢を見る。次にまた夢を見ない眠りがあって、次にまた夢見がある。一晩中これが繰り返される。
熟睡して夢を見ていない時に眠りが妨げられても、あなたは朝なにかものたりないような感じはしない。しかし、夢を見ている時に、その夢が妨げれれると、あなたは朝すっかい疲れ、消耗している。今では、これは外側からでも知る事ができる。だれかが眠っている時、その人が夢を見ているか眠っているか確かめる事が出来る。
その人が夢を見ていたら、まるで目を閉じたまま何かを見ているように、その目は絶えず動いている。ぐっすり寝むっいたら、その目は動かない。それは止まっている。だから、目が動いている時に眠りが妨げられると、あなたは朝を起きて疲れを感じる。
目が動いていない時に眠りが妨げられても、朝起きた時になにか物足りない感じはしない。多くの研究者が証明したのは、人の心は夢を糧とし、夢は必要不可欠なものであり、夢は完全な自動幻想だということだ。しかもこれは夜に限ったことではない。
起きている時も同じパターンが続いている。昼の間でさえそれに気づく事ができる。あるときは心の中を夢が漂っているし、あるときはそこに夢はない。そこに夢があるとき、あなたはなにかしているかもしれないが、いわばうわの空の状態だ。
内側のことであなたは手一杯だ。例えば、あなたはここにいる。心が夢の状態を経験していたら、あなたはわたしの言う事を聞いているようで聞いていない。
なぜなら、心は内側のことで手一杯だからだ。夢を見る状態でないときだけ、あなたは私の言う事を聞く事ができる。昼も夜も、心が夢を見ない状態から夢を見る状態へ、夢を見る状態から夢を見ない状態へと揺れ動く。これは内なるリズムだ。私たちは常に夢を見ているだけでなく、実生活でも未来に希望を投影している。現在はほとんど常に地獄だ。
それに耐えられるのは、ひとえにあなたが未来に希望を投影しているからだ。明日があるから今日を生きていることができる。
あなたは明日には何かが起きる。明日には楽園への扉が開くと期待している。それが今日開くことは決してない。そして明日が来る時には、それは明日としてやってこない。それは今日としてやってくる。だが、そのときにはすでに、あなたの心はさらに先へと進んでいる。
あなたはいつも自分自身の先を進んでいくーーー
夢を見るとはそういうことだ。あなたは現実のもの、近くにあるもの、今ここにあるものといっしょにいない。あなたはどこか別のところにいる。先を進み、先へと進んでいる。そしてその明日に、その未来に、あなたはいろいろな名前をつけている。
人々はそれを「天国」と呼び、あるひとたちはそれを「モクシャ(解脱)」と呼ぶが、それはいつも決まって未来にある。ある人は豊かな暮らしのことを考えているが、その豊かな暮らしは未来にしかない。ある人は楽園のことを考えているが、その楽園はあなたが死んだあと、ずっと先の未来にしかない。あなたはないもののために現在をほったらかしにしている。
夢を見るとはそういうことだ。あなたは今ここにいることができない。この瞬間にいるということ、それはとても難しいように思える。あなたが過去に入る事ができるのは、それもやはり夢を見ること、もはやないものの記憶や思い出だからだ。あなたは未来に入ることもできるが、未来とは投影であり、それもやはり過去からなにかをつくりだすことだ。
未来とは、もう一度投影された過去にほかならない。もっと鮮やかで、もっと美しく、もっと楽しげだが、それは磨きがかかった過去だ。あなたは過去のことしか考えられない。未来とはもう一度投影された過去にほかならない。そしてどちらも存在しない!現在があっても、あなたはけっして現在にいない。夢を見るとはそういうことだ。
そして、人は真実とともに生きることはできない。と言ったニーチェは正しい。人は嘘を必要とし、嘘から嘘へと生きている。私たちはよく真実を知りたいというが、だれも本当に知りたがってはいない。とニーチェは言う。私たちのいう真実とは嘘、美しい嘘にすぎない。誰も裸の現実を見ようとはしない。
この心がヨーガの道へと入ることはできない。なぜなら、ヨーガとは真実を明かすための方法論だからだ。ヨーガは夢を見ない心に達するたまの方法だ。ヨーガは今ここにあるための科学だ。
ヨーガとは、今やあなたは期待したり、自分の存在の先へと跳んだりはしないということだ。
ヨーガとは、ありのままの現実に直面するということだ。
だから、自分のあるがままの心に完全に失望して初めて
あなたはヨーガまたはヨーガの道へと入る事ができる。
いまだに心を通じてなにかが得られると期待しているなら
ヨーガはあなたには向いていない。
完全な失望が、ひとつの啓示が必要だーーー
この投影する心はむなしい、期待する心は愚かしく無益だという。
それは、ただあなたの目を閉じさせる。
それはあなたを酔っぱらわせる
それはあなたに現実が明かされることを許さない。
~略~
あなたはアーサナ、座法をやりつづけるかもしれない。
それはヨーガではない。
ヨーガとは内側へと転じることだ。
それはまわれ右、180度の方向転換だ。
未来に入り込まず、過去へと向かわない時、あまたは自分自身の内側へと入っていく。
なぜなら、あなたの存在は今ここにあるからだ。
~略~
ヨーガには信仰に相当するものがない。
ヨーガは何かを信ぜよとは言わない。
ヨーガは「経験せよ」と言う。
科学が実験せよというように、ヨーガは経験せよと言う。
実験と経験は同じものだ。方向が違っているだけだ。
実験は外側で行われる。
経験は内側で行われる。経験とは内側での実験だ。
科学は言う「信じるな、精一杯疑え。
が、同時に、不信にも陥るな。不信もまたある種の信仰だ」
あなたは神を信じるかもしれない。あるいは「神の不在」という概念を信じるかもしれない。あなたは狂信的な態度で、神は存在するというかもしれないう。あるいはその反対のことを言うかもしれない。神は存在しない、と。同じように狂信的に!
無神論者も、有神論者も、どちらも信仰だ。そして信仰は科学の領域ではない。科学とはある経験、あるがままの経験だ。信仰はいらない。だから覚えておくべき第2のことーーー
ヨーガは実存的、経験的、実験的だ。
信仰は要求されない。信心は必要とされない。経験する勇気だけ。そしてそれが欠けている。
信じることが容易なのは、信仰によってあなたは変容されないからだ。
信仰はあなたにつけ加えられるもの、表面的なものだ。
あなたの存在はかわらない。あなたはなんらかの変容を経験していない。
あなたがヒンドゥー教徒でも、翌日にはキリスト教徒になれる。たんに、あなたは変えるだけだ。
~略~
あなたは信仰によってではなく、自分の経験を通じて、自分の理解によって真理へと到達する。
つまり、あなたは全面的に変わらなければならない。あなたの現在の見解、生き方、心、精神は粉々に打ち砕かれるしかない。
新しいものがつくられなければならない。
その「新しいもの」が生まれて初めて
あなたは現実と触れあうことができる
だからヨーガは死であるとともに新たな生でもある。
~略~
ヨーガは哲学ではない。私はそれを宗教ではないと言い。それは哲学ではないと言う。
それは、あなたが考える事ができるものではない。それは、あなたがそうあるしかないものだ。
思考は役に立たない。思考はあなたの頭の中で動いている。
それはあなたの存在の根に達するほど深くない。
それはあなたの全体ではない。それは部分、実用的な部品にすぎない。それは訓練することができる。あなたは理路整然と議論し、合理的に考えられるようになるが、あなたのハートは変わっていない。
ハートはあなたのもっとも深い中心だ。頭はたんなる枝だ。
頭がなくてもあなたはいるが、ハートがなかったらあなたはいない。頭は基本的なものではない。
ヨーガはあなたの全存在、あなたの根っこに取り組む。
パタンジャリとかかわるとき、私たちは存在「あること」の究極の法則を知ろうとするべきだーーー
存在の変容の法則、いかにして死に、いかにして生まれ変わるかの法則、存在の新しい秩序の法則を。私がヨーガを科学と呼ぶのはそのためだ。
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