<OSHOの講話より> (つづき)
「責任」というのは、グループセラピーの過程(プロセス)においてこの上もなく大切な言葉だ。それは痛むがゆえに、誰も責任を取りたがらない。「私の惨めさの原因は私だ」と、その要点を見抜くだけでもとても痛む。誰か他人が原因であれば、人はそれを受け容れることができる。仕方のないことだ。が、もし私の惨めさの原因が「私」だとしたら、それは痛む。それはエゴに背く、それはプライドに背く。
グループセラピーが困難なプロセスであり、つらいのはそのためだ。あなたは逃れたい・・・。「エンカウンター」から、「タオ」から、「原初療法」から逃げだしたい。なぜあなたは逃げだしたいのだろう?それは、あなたがつねに自分は完璧に正しい、自分は完璧に善い・・・、私に害を与えてきたのは他者だと信じてきたからだ。
今やことの全体を変えなければならない。あなたはあらゆるものを逆さにしなければならない。誰もあなたに害を及ぼしてはいない。それに、たとえ彼らが何か害を及ぼしているとしても、それはあなたの協力を通してのことだ。だから、最終的には、責任は「あなた」にある。あなたがそれを選んだのだ。
あなたは言う。「夫が私につらくあたるのです」・・・。が、この夫を選んだのはあなただ。実際、そうであるからこそ、彼はあなたに害を及ぼすことができるのだ。あなたは傷つけられたかった。あなたがこの夫、この妻を選んだのはそのためだ。
ちょっと、妻を次から次へと取り替える人たちを観察してごらん。あなたは驚くだろう・・・。何回も何回も彼らは同じタイプの女性を見つけだす。同じタイプの女性を見つけだすのはむずかしい。が、彼らは見つけだす。そして6ヶ月も経たないうちに、彼らはまた愚痴をこぼす。そして、その愚痴はまったく同じだ。
私は8回結婚して、そのたびにどのようにか同じタイプの女性を見つけだした、ある男のことを聞いたことがある。ちょっと要点を見てごらん。その要点とは、彼にはある種のマインド(心理的傾向)、ある種の条件づけがあるということだ。その条件づけのなかでは、決まったタイプの女性だけが彼の心を惹きつける。金髪、あるいはブルーネット・・・、ある種の女性が彼の心を惹きつける。高い鼻、黒い眼、あるいは何かが。かならず彼はある種の女性に引き寄せられる。すると、その女性は同じことをやりはじめる。そうなると彼は当惑する・・・。が、彼は相手を替えたつもりになっていた。
あなたは女性を次から次へと替えているが、自分のマインドを変えたことはない!だからあなたの選択は昔のままだ。選択する本人が古い人だからだ。それではどうしようもない。あなたは同じ罠(わな)にはまる。そして同じ惨めさが生まれる。
グループセラピーは理解の大いなるプロセスだ。「私は自分自身に対して何をしてきたのか!」そしてもし、あなたがさらに深く入ってゆけば・・・。そこまでは、まだいかなるグループセラピーも入ったことがない。原初療法でさえもだ。が、仏陀はさらに深く入っていった。彼は言う。もしあなたがある種の両親を選んだのであれば、それもまたあなたの選択だ、と。
要点を見るがいい。あなたが生まれようとしてさまよっていたとき、何百万もの愚かな人々が愛を交わしていた。だが、それでもあなたはあるカップルを選んだ・・・。なぜか?あなたには特定の観念があるにちがいない。それはあなたの選択だ。それなのにあなたは、「両親が私に悪影響を及ぼした」と言う。
そもそも、あなたはなぜ彼らを選んだのか?そしてあなたの妻、あなたの夫・・・。あなたは彼らが害を及ぼしたと思うのかね?そして社会・・・、誰がこの社会を創りあげたのか?この社会を創りあげたのは「あなた」だ!それはだしぬけに現われるものではない。
路上の乞食は突然降ってわいたわけではない。「私たち」が彼を生みだしたのだ。あなたが裕福になりたければ、誰かが乞食にならねばならない。それなのに、乞食を見ると、あなたはとても気の毒に思う。あなたは誰を騙そうとしているのか?依然としてあなたは裕福になるという考えを抱いている。あなたが裕福になりたければ、誰かが乞食になる。あなたがひとかどの人物になりたければ、そのときには誰かがその評判、名声を得られないことになる。それは競争の世界だ。あなたは戦争を望んではいない。が、あなたは暴力的だ・・・すべての面で、あなたは暴力的だ。それなのにあなたは戦争を非難する。
平和主義者たちと彼らの行進を見たことがあるかね?彼らはなんと暴力的に見えることか!彼らの戦争反対のスローガン、彼らの戦争反対の叫び・・・、遅かれ早かれ、行進は暴動と化す。彼らは車を焼き、オフィスを破壊し、バスや電車に火を放ち、警察を襲撃する・・・。彼らは戦争に抗議しに来ていたのだ!
さあ、どうなっているのだろう?これらの人々は暴力的な人々だ。戦争は口実にすぎない。彼らの抗議は彼らの暴力の表現以外の何ものでもない。彼らは戦争のことなどどうでもいい。彼らはそれを口実として利用している。
社会はあなたによって創られる。そうしておいてあなたは、責任は社会にあると言う。あなた以外の誰にも責任はない。これは認めるのがもっともつらい真実のひとつだ。だが、ひとたびそれを受け容れたら、それは大いなる自由をもたらす。それは広大なスペースを創りだす。なぜならそれと共に、もうひとつの可能性がただちに開くからだ。
「もし責任が私にあるなら、私は変えることができる。もし私に責任がなかったら、変えることはできない。私が自分自身にそれを為しているとしたら、それは痛みはするが、新しい可能性をもたらしてくれる・・・。私は自分自身を傷つけるのをやめることができる。私は惨めであることをやめることができる」
グループのプロセスはあなたを自然にすることではない。それは自分の不自然さ、自分のまやかしをあなたに気づかせることだ。
「セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己へと連れてゆくことでしょうか?」
いや、まったく違う。その目的はたんに、その不自然な自己を彼らに気づかせることだ。そうすれば、自然な自己はおのずとやって来る。誰もそれをもたらすことはできない・・・。不自然なものが消え失せると、自然なものが見出される。自然なものはつねにそこにあった、がらくたの下に隠されていた。不自然なものが去れば、あなたは自然だ。あなたは自然になるのではない。あなたはいつも自然だった。どうして人が自然になりえよう?「なること」はすべてあなたを不自然へと導く。
「・・・もしそうだとしたら、自然であろうとする努力は不自然ではありませんか?」
そのとおりだ、自然であろうとする「努力」はつねに不自然だ。しかし、その不自然さを理解することは、自然であろうと努力することではない。それは単純な理解だ。自分が砂から油を絞り取ろうとしてきたことに気づき、その無益さを見抜いたとき、あなたはその企てそのものを落とす。壁を通り抜けようとして頭を傷つけてきたことに気づき、それを見抜いたとき、あなたは壁を通り抜けようとすることをやめる。あなたは扉を探しはじめる。そう、まさにそれに似ている。
「・・・もしそうでないとしたら、自然と不自然の本質的な違いは何ですか?」
自然なものとは、贈り物として・・・全体からの贈り物としてあなたに与えられたものだ。不自然なものとは、さまざまな教え、経典、性格、道徳によってあなたが築きあげたものだ。不自然なものとは、あなたが自然なもの、与えられたものの上に押しつけてきたものだ。自然なものは神から来ている。不自然なものは自分自身から来ている。あなたが自分の上に押しつけたいっさいのものを取り去るがいい。そうすれば、神はあなたの実存のなかで数限りない花をいっせいに咲かせる。
ある人がイエスに尋ねる。「あなたの基本的なメッセージは何ですか?」すると彼は言う。「鶏、魚、花に訊くがいい」「鶏、魚、花に訊くがいい」と言うことで、彼は何を言おうとしているのだろう?彼は、「自然に訊きなさい!」と言っている。
私のメッセージはこうだ。自然があなたを乗っ取ることを許すがいい。どんな性格も創ろうとしてはならない。性格はどれも間違っている。性格をいっさい持たずにいるがいい。いかなる種類の人格も創りだしてはならない。人格はすべて偽りだ。人格であってはならない。
そうすれば、ゆっくりゆっくり、あなたは自己の実存の内奥の中核から何かが生まれてくるのを見るだろう。それが自然だ。その香りはすばらしい。それは善い、けっして悪くない。それは養成されたものではない。まったく違う。それゆえに、そのなかに緊張はない、不安はない。あなたがそれを維持する必要はない。
真理は維持する必要がない。嘘のみが操作され、維持されねばならない。多くの世話と維持が必要だ。が、依然それらは真理ではなく、真理になることは絶対にない。そして真理のみが解放する。
ここで参加できるセラピーは、あなたを自然にするものではない。誰もあなたを自然にはできない。神がすでにそれをやっている。問題は、自然になる方法を学ぶことではない。問題は、身につけた不自然さをいかに捨てるかだ。
OSHO:TAKE IT EASY (日本語版「一休道歌」上巻、めるくまーる社)より
「責任」というのは、グループセラピーの過程(プロセス)においてこの上もなく大切な言葉だ。それは痛むがゆえに、誰も責任を取りたがらない。「私の惨めさの原因は私だ」と、その要点を見抜くだけでもとても痛む。誰か他人が原因であれば、人はそれを受け容れることができる。仕方のないことだ。が、もし私の惨めさの原因が「私」だとしたら、それは痛む。それはエゴに背く、それはプライドに背く。
グループセラピーが困難なプロセスであり、つらいのはそのためだ。あなたは逃れたい・・・。「エンカウンター」から、「タオ」から、「原初療法」から逃げだしたい。なぜあなたは逃げだしたいのだろう?それは、あなたがつねに自分は完璧に正しい、自分は完璧に善い・・・、私に害を与えてきたのは他者だと信じてきたからだ。
今やことの全体を変えなければならない。あなたはあらゆるものを逆さにしなければならない。誰もあなたに害を及ぼしてはいない。それに、たとえ彼らが何か害を及ぼしているとしても、それはあなたの協力を通してのことだ。だから、最終的には、責任は「あなた」にある。あなたがそれを選んだのだ。
あなたは言う。「夫が私につらくあたるのです」・・・。が、この夫を選んだのはあなただ。実際、そうであるからこそ、彼はあなたに害を及ぼすことができるのだ。あなたは傷つけられたかった。あなたがこの夫、この妻を選んだのはそのためだ。
ちょっと、妻を次から次へと取り替える人たちを観察してごらん。あなたは驚くだろう・・・。何回も何回も彼らは同じタイプの女性を見つけだす。同じタイプの女性を見つけだすのはむずかしい。が、彼らは見つけだす。そして6ヶ月も経たないうちに、彼らはまた愚痴をこぼす。そして、その愚痴はまったく同じだ。
私は8回結婚して、そのたびにどのようにか同じタイプの女性を見つけだした、ある男のことを聞いたことがある。ちょっと要点を見てごらん。その要点とは、彼にはある種のマインド(心理的傾向)、ある種の条件づけがあるということだ。その条件づけのなかでは、決まったタイプの女性だけが彼の心を惹きつける。金髪、あるいはブルーネット・・・、ある種の女性が彼の心を惹きつける。高い鼻、黒い眼、あるいは何かが。かならず彼はある種の女性に引き寄せられる。すると、その女性は同じことをやりはじめる。そうなると彼は当惑する・・・。が、彼は相手を替えたつもりになっていた。
あなたは女性を次から次へと替えているが、自分のマインドを変えたことはない!だからあなたの選択は昔のままだ。選択する本人が古い人だからだ。それではどうしようもない。あなたは同じ罠(わな)にはまる。そして同じ惨めさが生まれる。
グループセラピーは理解の大いなるプロセスだ。「私は自分自身に対して何をしてきたのか!」そしてもし、あなたがさらに深く入ってゆけば・・・。そこまでは、まだいかなるグループセラピーも入ったことがない。原初療法でさえもだ。が、仏陀はさらに深く入っていった。彼は言う。もしあなたがある種の両親を選んだのであれば、それもまたあなたの選択だ、と。
要点を見るがいい。あなたが生まれようとしてさまよっていたとき、何百万もの愚かな人々が愛を交わしていた。だが、それでもあなたはあるカップルを選んだ・・・。なぜか?あなたには特定の観念があるにちがいない。それはあなたの選択だ。それなのにあなたは、「両親が私に悪影響を及ぼした」と言う。
そもそも、あなたはなぜ彼らを選んだのか?そしてあなたの妻、あなたの夫・・・。あなたは彼らが害を及ぼしたと思うのかね?そして社会・・・、誰がこの社会を創りあげたのか?この社会を創りあげたのは「あなた」だ!それはだしぬけに現われるものではない。
路上の乞食は突然降ってわいたわけではない。「私たち」が彼を生みだしたのだ。あなたが裕福になりたければ、誰かが乞食にならねばならない。それなのに、乞食を見ると、あなたはとても気の毒に思う。あなたは誰を騙そうとしているのか?依然としてあなたは裕福になるという考えを抱いている。あなたが裕福になりたければ、誰かが乞食になる。あなたがひとかどの人物になりたければ、そのときには誰かがその評判、名声を得られないことになる。それは競争の世界だ。あなたは戦争を望んではいない。が、あなたは暴力的だ・・・すべての面で、あなたは暴力的だ。それなのにあなたは戦争を非難する。
平和主義者たちと彼らの行進を見たことがあるかね?彼らはなんと暴力的に見えることか!彼らの戦争反対のスローガン、彼らの戦争反対の叫び・・・、遅かれ早かれ、行進は暴動と化す。彼らは車を焼き、オフィスを破壊し、バスや電車に火を放ち、警察を襲撃する・・・。彼らは戦争に抗議しに来ていたのだ!
さあ、どうなっているのだろう?これらの人々は暴力的な人々だ。戦争は口実にすぎない。彼らの抗議は彼らの暴力の表現以外の何ものでもない。彼らは戦争のことなどどうでもいい。彼らはそれを口実として利用している。
社会はあなたによって創られる。そうしておいてあなたは、責任は社会にあると言う。あなた以外の誰にも責任はない。これは認めるのがもっともつらい真実のひとつだ。だが、ひとたびそれを受け容れたら、それは大いなる自由をもたらす。それは広大なスペースを創りだす。なぜならそれと共に、もうひとつの可能性がただちに開くからだ。
「もし責任が私にあるなら、私は変えることができる。もし私に責任がなかったら、変えることはできない。私が自分自身にそれを為しているとしたら、それは痛みはするが、新しい可能性をもたらしてくれる・・・。私は自分自身を傷つけるのをやめることができる。私は惨めであることをやめることができる」
グループのプロセスはあなたを自然にすることではない。それは自分の不自然さ、自分のまやかしをあなたに気づかせることだ。
「セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己へと連れてゆくことでしょうか?」
いや、まったく違う。その目的はたんに、その不自然な自己を彼らに気づかせることだ。そうすれば、自然な自己はおのずとやって来る。誰もそれをもたらすことはできない・・・。不自然なものが消え失せると、自然なものが見出される。自然なものはつねにそこにあった、がらくたの下に隠されていた。不自然なものが去れば、あなたは自然だ。あなたは自然になるのではない。あなたはいつも自然だった。どうして人が自然になりえよう?「なること」はすべてあなたを不自然へと導く。
「・・・もしそうだとしたら、自然であろうとする努力は不自然ではありませんか?」
そのとおりだ、自然であろうとする「努力」はつねに不自然だ。しかし、その不自然さを理解することは、自然であろうと努力することではない。それは単純な理解だ。自分が砂から油を絞り取ろうとしてきたことに気づき、その無益さを見抜いたとき、あなたはその企てそのものを落とす。壁を通り抜けようとして頭を傷つけてきたことに気づき、それを見抜いたとき、あなたは壁を通り抜けようとすることをやめる。あなたは扉を探しはじめる。そう、まさにそれに似ている。
「・・・もしそうでないとしたら、自然と不自然の本質的な違いは何ですか?」
自然なものとは、贈り物として・・・全体からの贈り物としてあなたに与えられたものだ。不自然なものとは、さまざまな教え、経典、性格、道徳によってあなたが築きあげたものだ。不自然なものとは、あなたが自然なもの、与えられたものの上に押しつけてきたものだ。自然なものは神から来ている。不自然なものは自分自身から来ている。あなたが自分の上に押しつけたいっさいのものを取り去るがいい。そうすれば、神はあなたの実存のなかで数限りない花をいっせいに咲かせる。
ある人がイエスに尋ねる。「あなたの基本的なメッセージは何ですか?」すると彼は言う。「鶏、魚、花に訊くがいい」「鶏、魚、花に訊くがいい」と言うことで、彼は何を言おうとしているのだろう?彼は、「自然に訊きなさい!」と言っている。
私のメッセージはこうだ。自然があなたを乗っ取ることを許すがいい。どんな性格も創ろうとしてはならない。性格はどれも間違っている。性格をいっさい持たずにいるがいい。いかなる種類の人格も創りだしてはならない。人格はすべて偽りだ。人格であってはならない。
そうすれば、ゆっくりゆっくり、あなたは自己の実存の内奥の中核から何かが生まれてくるのを見るだろう。それが自然だ。その香りはすばらしい。それは善い、けっして悪くない。それは養成されたものではない。まったく違う。それゆえに、そのなかに緊張はない、不安はない。あなたがそれを維持する必要はない。
真理は維持する必要がない。嘘のみが操作され、維持されねばならない。多くの世話と維持が必要だ。が、依然それらは真理ではなく、真理になることは絶対にない。そして真理のみが解放する。
ここで参加できるセラピーは、あなたを自然にするものではない。誰もあなたを自然にはできない。神がすでにそれをやっている。問題は、自然になる方法を学ぶことではない。問題は、身につけた不自然さをいかに捨てるかだ。
OSHO:TAKE IT EASY (日本語版「一休道歌」上巻、めるくまーる社)より
人生を変容する錬金術 アウェアルケミー
http://www.awalchemy.info(サトルボディーヒーリング&リーディング&気功療法)
菩提 サーシャ