和へ447 愛とは。
通信教育の『生きること 死ぬこと』より
愛とは
いのちの秘密を知るために生産的で希望の持てる方法
愛とは能動的に相手の中に入っていくことで、その結びつきによって相手の秘密を知りたいという欲望が満たされる。
この結びつきにより相手を知り自分自身を知り全ての人を知ることになる。
「愛」とは共有すること
友人 心の奥にある苦しみや悩みを共有すること
カウンセリング 自分の思いを共有してもらうことで、いやしと救いを得られる。
カウンセラーから答えが与えられるのではなく共有してもらうところで自分でその問題に直面するエネルギーを得る。
(市政相談のおじちゃんに話を聞いてもらうのカウンセリングみたいです。)
生や死の問題に直面するという「いのちの体験」をするとき、友達とその苦悩を共有することで、とりあえずの答えを見つけ、その問題を「棚上げ」して歩みを続けていくことができる。
(解決しない問題は「棚上げ」して歩み続けたらよいのでしょうか?)
現代の若者は他者の目に自分がどう映っているか気にしすぎる。
自己肯定大切。自尊感情が希薄な若者が多い。
無条件で親から受け入れられていると感じることが少ない子
「ありのままで生きていてもいい」という自身が身につかない。
競争が厳しいのも原因か?
人は相手に見つめられたい欲求、甘えたい欲求、性的に満たされていた欲求がある。
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なんてメモしてました。
そしてマザー・テレサの本
『世界で一番たいせつなあなたへ』を読み返していて思ったことがあります。
―
マザーと出会った人はみな口をそろえて
「わたしこそ、世界で一番マザーから愛されている」というのだそうです。
マザー・テレサに会いに行く人は、それなりに悩みを持った人。
この本の著者も法学部卒業後、マザーに会いに行かれ神父さまになられました。
マザー・テレサはいつも深い悩みを抱えていた人だそうで、その心とマザー・テレサに会いに行った人の心が共鳴して
「わたしこそ、世界で一番マザーから愛されている」と感じるのではないでしょうか?
マザーはとても忙しかったけど本当に助けを必要としている人にはすぐ時間をとってくれ、「命を大切にしなさい」などと説教することはなく、ただ心のそこからの笑顔と力強く握り締めた手のぬくもりによって「あなたは、わたしにとって大切な人です」と無言のうちに伝えるだけだったそうです。
人は自分のことを本当に大切に思ってくれる人がたった一人でもいれば、どんなことがあっても生きていけるのだそうです。
やはりそこに共鳴する心があるのだと思います。
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今の私は、心の共鳴の部分でつまずいています。
そんな自分を受け入れる。
「こんなはずじゃなかった」
でも、どうして「こんなはずじゃなかった」と言えるのでしょう。
それは、思い込みでしかありません。
わたしたちは、自分で勝手に「こんなはず」の自分、理想の自分を作り上げ、その理想通りにならない自分を責めてしまうのです。
わたしたちを苦しめるのは、起こったことそのものではなく、実はわたしたち自身なのです。
「自分でさえ自分を受け入れられないときでも、神さまはあなたを受け入れて下さいます」とマザー・テレサは言います。
「自分はだめな人間だ。価値がない」と言えば、それはわたしたちを創って下さった神さまを侮辱しているのと同じ、自分の思った通りでなかったとしても、神さまの作品であるわたしたちには無限の価値があります。わたしたちは誰もが、神さまの最高傑作なのだそうです。
なんだかまとまりませんが、どんなときでも自己肯定、自尊感情がマザーの言葉、神さまの存在によって得られるように思いますが
祭壇正面 十字架の
神さまを今日はみつめてヘビメタ気分でした。
http://www.pauline.or.jp/visitingchurches/201201_daimyoumati.php
祭壇正面 十字架
またわからなくなったので考えて見ます。